リンク
カテゴリ
Diary DD&DS USA Japan Bangladesh Outside the Country Language Learning Lessons Crafts, etc. Nature Movie/TV Books CD/Music Art (General) Baby Products etc. Experimental Cooking The Baby Is Coming! The Baby Is Coming2 Other Memories Memo About the Weblog タグ
USA
English
Religion
Cultures
Books
My Family
Japan
JOCV
Movie/TV
ESOL/ESL
Bangladesh
Spanish
Dreams
Europe
Travels
CD/Music
Vietnam
India
Thailand
Australia
最新のトラックバック
以前の記事
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2023年 08月 15日
(以下ネタバレ)
バーテンダーが、客の身の上話が一段落したところで”I’m so sorry”と言うのだが、最後まで観たら「そういう状態ならまさに”I’m so sorry”だよね…」という話だった。単なる共感でも、かといって単なる謝罪でもなく、本来この世に存在しないはずの感情。 いろいろ「うわあ…」と気持ち悪くなる話だったけど、何となく後を引く。原作を読んでみようかな。 実は、”I am sorry”にはその対象となる人の感情と自分の感情が全く同一であるという意味合いがあって (『感情の在処と謝罪の表現』) 妻や夫や恋人や親友を裏切った誰かが、相手に"I am sorry"と言うのは、もちろん「ごめんなさい」という謝罪の気持ちも込められているが、それ以前に、「私にせめてあなたと同じ感情を共有させてください」「私の心をあなたの心と一つのもののようにさせてください」ということがあるのだと思う。(だから激怒した相手は必ず"No, you are not!"と拒絶する。)
#
by liyehuku
| 2023-08-15 23:40
| Movie/TV
|
Comments(0)
2023年 08月 08日
“Hiroshima” is a film, which has been forgotten in Japan for several decades since its film distributer withdrew it from showing on the screens after previewing it. The film distributers in those days didn’t want to get into diplomatic troubles with the US. They were afraid that promoting it would agitate the anti-America movement. After all, it was 1953. I had never known this film until one day I watched it on one of Starz channels about 15 years ago. (I lived in the US then.) They had been showing it for a while as one of their “Hidden Gems” programs. It is a good film on its own. No need to bring another movie up on the competition trying to convince someone of its value. I was born and grew up in Hiroshima prefecture getting the whole “August 6th, 1945” education. We learnt how people there lived their daily life in 1945, and how they died or how they lost their families at the bombing. Even after barely surviving it, many people were suffering from severe injuries, most of whom couldn’t make it for days. The radiation has affected the survivors’ lives. After the bombing, various people got into the area to search for their families or relatives, to help the suffering, to clean up debris for the restoration of the city, or to survey the aftermath, not knowing about radiation. Many of them got seriously ill and died from it. I learnt all of these in my childhood from stories and films but most mainly from photos. Many of the photos were took by the US army as evidence to evaluate the effectiveness of the atomic bomb. When I first found STARZ putting “Hiroshima” on their program, it took some time for me to watch it. I thought I knew what it would be like. There must be nothing new, but still I was wondering how I had never heard of it. “How come a person like me has never known it? Let’s find out. I gonna watch it anyway.” So I watched it. It was a bold but decent one capturing their own lives. #
by liyehuku
| 2023-08-08 09:33
| Movie/TV
|
Comments(0)
2023年 08月 06日
1953年に製作された映画”Hiroshima”を紹介する英テレグラフの投稿のリプ欄と引用RTは、概ね、戦争を始めた日本、戦争中の日本の行為を非難し、原爆投下は当然の帰結だとする意見で占められている。
私は今日はただ死者を悼みたい。広島県で生まれ20年近くを過ごした私は、そのように教育され、そのように育ったからだ。 ドレスデン空襲とカート・ヴォネガットのことを思った。 敵味方関係なく「その場にいた」ことでしか共有できないことはあるのかもしれない。というより、「その場にいた」ことで敵味方が関係なくなるのかもしれない。(ただ、ヴォネガットはドイツ系アメリカ人なのでそのことも考慮に入れる必要がある。) ヴォネガットが「それ」を共有したかったのかどうかはわからない。 ある意味ー結果的にという意味でーヴォネガットは自分が生み出した数々の小説の中で、広島、長崎、沖縄の語り部のようにドレスデン空襲を語り継ぐことになった。 ヴォネガットはインタビューの中で、母親の自殺やドレスデン空襲が彼の中で特別な意味を持っているのではないかというインタビュアーの問いかけに対し、「それはよく言われることだが、それらの出来事が私の人生の他の出来事より特に大きな意味を持つということは全くない」という意味のことを答えて、明確に否定している。(インタビューの正確な内容についてはあらためて確認する必要があるが、この記事の中ではとりあえず回答の主旨を前提に話を進める。) その2つの出来事が彼の作品の中に繰り返し現れることを考えると、腑に落ちない回答である。しかしこれはひょっとすると、語り継ぐこと、つまり、ある経験を誰かと共有しようとしているように見えることが実は彼の意図に反していることを意味するのではないか。というより、彼は単に「語り継ぐことは不可能だ」と考えていたのではないか。 経験の核の部分は誰とも共有できないからだ。 そしてその共有できない部分の積み重ねがその人を作っていく。「誰とも共有できない」ことの過酷さから神への信仰に繋がる(それを介して他者と共有する)こともあるが、おそらく、ヴォネガットにとってドレスデン空襲はそうはならなかった。彼が小説の中で繰り返しドレスデン空襲を描いたのは、それが個として彼を形作るものであり、本来誰とも共有できない部分だからではないか。そこに神はいない。 それに対して、「語り継ぐ」という行為は「共同体で共有する」ことである。日本という共同体において、その行為に神が介在しているように見えない。(共同体がその代わりなのかもしれない。) 語り部とヴォネガットは結果的に似通っているが、「経験を他者と共有する」という観点では正反対なのである。 先に「その場にいたことでしか共有できないことがある」と書いたが、もっと突っ込んだ話をすると、同じようにその場にいてすら共有できないのが、経験の核の部分である。 また、経験を他者と共有する、特に共同体として共有するということは、それを受け取る側がその経験を物語として消費するという側面と不可分である。たとえば、広島への原爆投下を「忘れません」と言うことはそのような必要悪を内蔵するのだということを本当は認識しておくべきだと思う。しかし、被曝経験者の高齢化が進む現状で語り継ぐことが重要視されるあまり、それは看過されている。 語り継ぐことの正しさしか扱わない現在の日本の報道を、前述のインタビューにおけるヴォネガットの回答に照らし合わせると、彼が否定したかったのは「自分の経験を物語として消費されること」なのかもしれない。 あるいは単に自分の経験が「記録」として扱われることを避けたかったのかもしれない。 私にも自分の中に誰とも共有できない経験の核の部分があるという自覚があるが、共有できなさ過ぎて、幻とか記憶の捏造みたいな気がしてくることがある。 ヴォネガットもそうだったんじゃないだろうか。だから繰り返し描いたんじゃないだろうか。 仮にそれが幻や記憶の捏造であったとしても、フィクションの中で再構成することでそれを存在させることができる。それは記録ではないし、そうあってはならない。また、記録は共有が前提となるものである。もしそれが記録として扱われるなら、自分の実存と離れてしまう。 #
by liyehuku
| 2023-08-06 11:22
| Diary
|
Comments(0)
2023年 06月 27日
男性ばかり救助の理由「女性は子供抱えたまま溺れた」 移民750人乗る船沈没…82人死亡500人超不明 ギリシャ沖
“当局が駆けつけ、移民たちを救助。これまでに104人が助け出されている。 14日、ギリシャの町に、救助された移民たちが降ろされた。 毛布にくるまって休んでいるが、なぜか男性ばかりだ。 「女性たちは子供を抱えたまま溺れた」” この報じ方だとおそらく語弊が生じる。そして案の定、この記事に寄せられたコメントの中には、救助された人たちがあたかも「自分が助かるために女子供を押しのけた」かのようにみなしたものがいくつもあった。 『タイタニック』の観過ぎなんだと思うよ。 救助された人に「誰かを押しのける」ような余裕は全くなかったはずだ。 船の乗客の出身国と移民として船に乗っていたという背景から考えると、性別や年齢を問わず「泳ぎを知らない人」が圧倒的に多いと思われるからだ。 特に女性の場合、ほとんど全員が泳いだ経験が全くないと思う。基本的に肌を出さないようにしているから、水の中で着ている物が水を吸ってしまうとあっという間に沈んでしまう。 日本でよく言われる「溺れそうになったら浮いて助けを待つ」は、「その前に泳ぎを教わること」が前提になっている。泳ぎを教わった結果、実際に泳げるようになるかどうかはまた別の話で、「教わるかどうか」が重要なのだ。 たとえばエジプトなら、「学校で水泳を教えてくれるわけじゃない。インターナショナルスクールなら話は別かもしれないけど庶民には関係ない。(日本人学校はホテルのプール借りて水泳の授業をしていた。)大都市ならプール施設もあって水泳を習えるけど、利用できるのは金持ちだけ」というのが泳ぐことに関してのお国事情だ。 水が豊富なバングラデシュでさえ、ほとんどの人は人生で「泳ぐ」を経験しない。だからポッダ・ノディを渡る船が沈没すると乗っていた人のほとんどが(場合によっては全員が)溺れて死んでしまう。 そして、これがムスリムに特有の事情なのかといえば、おそらくそういうわけでもない。 インドのパナジ(ゴア)に行った時、あそこは長いビーチが客層によって明確に住み分けられていて、一番北側の、欧米人バックパッカーが集まる場所では、水着姿は当然のこととしてトップレスの人もいた。欧米人の老夫婦が集まる場所や、欧米からの家族連れが集まる場所もあり、そういう所ではさすがにみんな水着を来ていて、泳いだり海辺で遊んだりくつろいだりしている。 欧米人バックパッカーが集まる場所と反対の端(一番南側)にはインド人観光客が集まる場所があった。旅行は特別な機会なのでみんな一張羅を着て、海辺に立っている。誰ひとり海に入っていなかった。バングラデシュのコックスバザールで同じような光景を見たことがある。 “大人も子供も一張羅をきっちり着込んでいる。女性は上等のサリーにハイヒールを履いていることも多い。みんなで海岸に集い、海を眺めている”(パナジ) “お人形さんのようにきっちりスーツを着せられた5歳くらいの男の子が、「海だあ!」と叫んで、海岸に駆け出した行ったことを覚えている”(コックスバザール)
#
by liyehuku
| 2023-06-27 14:40
| Outside the Country
|
Comments(0)
2023年 06月 20日
Twitterでこの論文を紹介するツイートがあった。 10年以上前のことになるが米国に住んでいた時に、”I’m sorry”という表現が使われる場面が非常に限定的なことについて考察したことがある。前述のツイートで紹介されていた内容はその時に考察したことと重なるところがあって、非常に納得感があるというか、「わかる…」という共感を覚えた。 ちなみに私の「考察」はこのブログで記事にしたことがある。 長いので、関連のある部分を要約すると、「米国人がごめんなさいを言わないのは、訴訟のリスクを回避するためだと解釈されがちだが、実は、”I am sorry”にはその対象となる人の感情と自分の感情が全く同一であるという意味合いがあって、それが現代の米国人のあり方にはそぐわないということも大きいのでは」ということが書いてある。 「わたし」と「あなた」はあくまで別の人間、「わたし」と「あなた」の境界が厳然と存在している文化の中では、"I am sorry"という表現を何だか気持ち悪いと思う人が結構多いのではないだろうか (『10/16/2009: Feelingは誰のものか』) そして、米国のように「わたし」と「あなた」の境界が厳然と存在しているか、日本のように比較的曖昧か、という違いは、意識(自我)と無意識の間の壁の厚さの違いと関係しているかもしれない。 傾向として、アメリカ人の意識と無意識の間の壁は日本人のそれと比べると分厚い。鉄壁と破れ障子くらいの差があると思う (『11/12/2009: 木乃伊の愚痴』) その点についてはさらに考察が必要だが、ここでは米国の事情についていったんおいておいて、バングラデシュの事情を考えてみたいと思う。というのも、上に挙げた『10/15/2009: アメリカ人が(あるいは○○人が)「ごめんなさい」を言わない訳』という記事の中で、単純に共通する現象としてバングラデシュを同列に引き合いに出し(「バングラデシュ人も「ごめんなさい」と言わない人たちだった」)、それ以上は触れていないが、バングラデシュ人が「ごめんなさい」を言わない理由は米国人のそれとはまた違うと考えるからだ。 私がベンガル語を学んだ際(二十数年前)には、「ごめんなさい」は「マッフ・コルベン」と習った。謝罪する相手が自分と同格、あるいは目下の者であれば「マッフ・コルン」という表現でも文法的には正しいのだが、講師は「基本的に目上の人に対する表現を使っておけば礼儀正しく、したがって間違いがない」という方針で教えていた。今ネットで調べてみると「マフ・コルベン」、あるいは「マーフ・コルベン」という表記もある。「ベンガル語単語集<WEB版>」では「マフ」になっているのでこの記事でも以降はそれを採用する。「マフ」は「許し」という意味である。「マフ・コルベン」を英語で直訳すると”Forgive me”になる。 「ごめんなさい」が、その言葉が投げかけられる相手にとって「許すか(赦すか)、許さないか(赦さないか)」の話になると、それはそれで(米国における”I am sorry”とはまた違った意味合いで)気軽に発することができない気がする。「許し(赦し)」は特に一神教を信じる者にとっては、信仰において重要なテーマとなることが多いからだ。 「ごめんなさい」の表現として「ソーリー」を挙げているサイトもあった。英語のsorryから来ているものと推測される。バングラデシュでは気軽に使える「ごめんなさい」として都市部を中心に定着しているのかもしれない。sorryも外来語として使えば「その感情は誰のものか」みたいなことを考えなくても済む。 また、「ドゥッキト」を「ごめんなさい」として挙げているサイトもあった。「ドゥッキト」は直訳すると「悲しいです」で、日本語だと「残念です」が近いと思う。英語だとおそらく”It’s a shame that…”が近い。(ベンガル語で「ドゥッコ」は「悲しみ」。)日本語の「ごめんなさい」とはまた違う感じがする。 ベンガル語にもともとあった表現で日本語の「ごめんなさい」に近いのは、やはり「マフ・コルベン」の方だと思う。ただし、バングラデシュに住んでいた時(二十数年前の2年間)にその表現を聞くことはほとんど全くなかった。気軽に使える表現ではないからだろう。 バングラデシュで痴漢に遭った時、相手がしきりに「マフ・コルベン、マフ・コルベン」と言っていたのだが、あれは私に対して言っていたのではなく、神に向かって言っていたのではないか。 こうして考えてみると、日本では謝罪や「ごめんなさい」と言うことが「誠意の表れ」とされ「正しいこと」とみなされるが、実は社会的なマナーや文化的なコードの問題であって倫理観とはあまり関係ないのかもしれない。それどころか、感情を軽率に共有し、許すか許さないかを安易に相手に委ねてしまう傾向があるといえなくもない。許すか許さないかを決めるのはただの人間であり、そこに神は介在しない。 ちなみに、『10/16/2009: Feelingは誰のものか』の冒頭で、米国人が「子どもに対して、相手に対する謝罪や同情を表すことばとして"I am sorry"をきちんと言わせるようにしつける」という話をしたが、あれは子供が幼いうちから徹底的に社会性を身につけさせるということの一環であり、倫理的に正しいからというわけではない。 実は倫理的であるかどうかにはあまり関係ないかもしれない「ごめんなさい」が、日本で「誠意の表れ」「正しいこと」とされるのは、やはり感情において自他の区別が曖昧で、共感のあり方が「あなたの感情は私のもの、私の感情はあなたのもの」(自分の感情と相手の感情は全く同じものである)というところから来ているのだろう。そして日本文化の中ではそのような共感のあり方こそが倫理的に正しいと捉えられている。そう考えると、英語のsorryという言葉が持つニュアンスは、現代の日本人の感情にこそしっくりくるもののように見える。
#
by liyehuku
| 2023-06-20 21:21
| Language
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||