リンク
カテゴリ
Diary DD&DS USA Japan Bangladesh Outside the Country Language Learning Lessons Crafts, etc. Nature Movie/TV Books CD/Music Art (General) Baby Products etc. Experimental Cooking The Baby Is Coming! The Baby Is Coming2 Other Memories Memo About the Weblog タグ
USA
English
Religion
Cultures
Books
My Family
Japan
JOCV
Movie/TV
ESOL/ESL
Bangladesh
Spanish
Dreams
Europe
Travels
CD/Music
Vietnam
India
Thailand
Australia
最新のトラックバック
以前の記事
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2011年 03月 01日
アメリカで最初に暮らしたのはテネシー州レバノン。州都ナッシュビルからそれほど遠くない田舎町だった。
テネシー州は「バイブルベルト」と呼ばれるキリスト教の原理主義的な傾向の強い地域の一部であるらしい。(もちろんこういう呼び方は外から見てのものなので現地で聞くことはない。) そこからテキサス州エルパソに移り、日本に本帰国するまではそこで暮らしていた。 テキサス州も「バイブルベルト」の一部とされる。エルパソはメキシコとの国境の街で、おそらく人口的にはカトリックが多いはずなのだが、こういった地域でのカトリックはどうしても家族宗教という色合いが強くなりがちで、「親がカトリックだったから自分もカトリックだとは思っているけど長らく教会には行ってない」という人が多い。「葬式仏教」という言葉があるがいわば「祭式宗教」みたいなものだろうか。 だから逆にプロテスタント系の教会がどんどんそういった層に食い込んでいこうとするさまが目立つ。勢いを感じる。 エルパソは米軍基地を抱えているのでアメリカ国内の他州からの人の出入りも多いが、メキシコ系の住民の中でなんとなく自分が余所者であると感じる人も少なくない。そういった時にプロテスタント系の教会での様々な人の集まりがうまく仲介の機能を果たしているようなところもあった。 私がバイブルスタディに通っていたのはそういった教会の一つだった。(バプテスト教会である。) ある日、そのバイブルスタディの講師が私に言った。 "Jesus is the truth" 彼女はそれを「イエスは真実そのものなのです。だからたとえジャングルの奥地に住み、生まれてこのかたイエス・キリストの名を聞いたことがない人でも真実を信じる人はイエスを信じている者と見なしていいのです」という文脈の中で言ったのだった。 "Jesus is alive"(「イエスは今も生きている」)というのもよく使われる言い回しだ。車のステッカーでもよく見かける。 どうやらこのあたりにクリスチャンの矜持、特にユダヤ教、イスラム教に対する矜持(クリスチャンのキモ)があるらしいのだ。「このあたり」というのは、 「クリスチャンである上で欠かせないのは『私はイエス・キリストを信じます(イエスを救世主として信じます)』という一点だけ。ユダヤ教やイスラム教と違い数多くの厳しい戒律を守る必要がない」 というあたりである。「数多くの厳しい戒律」というのはクリスチャンにとって「既に死んだもの」であり、生きているイエスと対比をなしている。 もちろん、戒律を守る必要のない彼らにとっても「聖書は神の言葉そのもの」であることには変わりはない。特に福音主義や原理主義の立場に立てば、誰か(自分自身も含め)がそこに書いてあることに反することをすれば罪を犯したと見なすことになる。もっともその罪は日常的ないわばささいなものと重大なものとに分けられており、世の中の多くの人にとってはそれほど厳格に日常生活を縛るものではない。 しかし・・・・・・例えば同性愛は重大な罪に当たる。だからあれほど社会問題になっているのだ。 妊娠中絶にしてもプロチョイスとプロライフがあれほど激しく戦っているのは、それがもし「罪である」と見なされるものならば重大な罪だからである。(だから受精した卵子、あるいは胎児をどの時点から人間と見なすか、その根拠を聖書のどこに求めるのかということ、そしてその基準を共有することが不可欠になる。中絶行為がその基準に反すればそれは「殺人」なのだ。) 同性愛であるとか妊娠したのだけれど産むには状況が厳しいという人の場合、そういう裁定はその人自身を否定することになりかねない。 バイブルスタディの講師に一度確認してみたかったことがある。彼女が「聖書は神の言葉そのものなのです」というたびに、私はその質問を彼女に投げかけてみようと口まで出かかったのだが、とうとう果たせなかった。 「でも聖書にこうしなさいとかこれこれのことはしてはいけないなどと書いてあって、それを守っていればいいというなら、ユダヤ教やイスラム教の戒律と変わらないのではないですか? それではLiving truthとは言えないと思うのです。それはイエスが真実でしかも生きているということと矛盾しませんか?」 自殺は重大な罪とされるが、だから自殺した人がみんな地獄に落ちるというなら、そこに「今も生きている」はずのイエス・キリストはいない。 私たちはイエス・キリストを通して神を知り、神はイエス・キリストを通して私たちを見るという。イエス・キリストがいないということは人が人を裁いているだけなのだ。それでは世俗的な法律と変わるところがない。 結局のところ、一人一人が聖書(聖書の戒律や法律としての側面)とLiving truthの狭間で悩むしかないということなのかもしれない。 (具体的には聖書に書かれた固定された正義を自分の人生の個々の場面にどう反映するかということになるのだろう。しかし、それだと個人の問題に収束してしまって、それで終わりということになってしまう。それで問題が片付くかといえばそうではない。何か重要なことを忘れている気がするのだがそれが何なのか私にはわからない。)
by liyehuku
| 2011-03-01 13:42
| USA
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||