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2016年 05月 20日
少し前の記事に当の本人からコメントがあって(なかなか気付かず申し訳ない)、自分の記事を読み直した。
記事の中で私は「親が意図的に子供のやる気を刺激すること」やその間接的な手法としての「親が子供の環境を用意すること(お膳立て的な意味で)」について懐疑的である。 今の私はその点で考え方を少しだけ変えた。 私が「懐疑的」であったのは、自分の好みの問題ということもあるのだが、何より上の子(現在小学5年生)が幼い頃にその手が通用しなかったからということが大きい。(それまでの自分は「お膳立て」にそれほどためらいは感じてなかった気がするし。) 彼女はどれほど巧妙にお膳立ての形跡を消してもそれを嗅ぎ当ててしまうようなところがあった。(2歳の頃だったか、クリスマスの際に「おたくのお子さんにサンタを信じさせるのは難しそうですね」という意味のことを言われたことがあるが、果たして3、4歳の頃には彼女は「サンタさんてお父さんお母さんだよね」と言うようになっていたのだった。) その彼女、今ではその感覚がだんだん鈍ってきたようで、今ならお膳立てしてその形跡を巧妙に隠せば気がつかない可能性は高いし、気がついても十中八九気にも留めないと思う。そのセンサーの感度は、幼稚園や小学校での集団生活を経て、身につけてきた社会性とトレードオフになっているように見受けられる。(ちなみに、我が家で一番社会性があるのは彼女だと思う。一番というか唯一というか。) 私が少しだけ「懐疑的」でなくなったのは、そういった上の子の変化があったことも関係しているかもしれない。 もう一つ、大きな原因として考えられるのは、下の子の「特質」である。 実は数年前、子供たちに発達障害の検査を受けさせた。 その頃上の子は小学校低学年、下の子は幼稚園児。検査の後、検査を行った人から「上の子には特に目立った傾向が見られず、下の子は幼なすぎて確定診断をできる状態ではない」という話を聞いて、後日受けるはずの診察には(来るはずの連絡が来なかったこともあって)行かなかったのだった。 それが昨年度、小学校(の養護教諭)から下の子について「もしかしたら可能性があるのではないか」という話があった。その後数回学校で担任の先生やカウンセラー、養護の先生と面談を重ねた結果、再び発達障害の診断検査を受けることになり、先日受けてきたところ。 受けたのが市の教育相談センターで医師の診断が受けられるわけではないため、「診断名」はつかない。検査の結果から本人の傾向(得意なことと苦手なこと)はわかる。 検査の結果、やはり下の子には学校生活でも何らかの教育的配慮(たとえば「気が散りやすく、気が散ると先生の話が理解できなくなるので、席を一番前にする」とか)が必要ではないかという話だったので、後日また改めて学校の先生達と面談することになっている。 診断名が付いてないので確かなことは何もいえないのだが、ネットを調べたり本を読んだりしていると「多動が見られないADHD」の特徴がよく当てはまっているかな…と思う。 発達障害を持つ人には「狭い空間の方が落ち着く」という人が少なくない。自閉症で最も成功した人の1人とされるテンプル・グランディンにも「預けられていた農場で牛用の拘束器具に入ったら非常に落ち着いた」なんて逸話がある。(確か「その後、大学に進学して寮に入った際に、2人部屋の自室に自分専用の拘束器具を作ったら、性的異常者ではないかと疑われ、寮から追い出された上に退学させられそうになった」はず。) 下の子も衝撃吸収シート(1枚が1辺約60cmの正方形で、縁がジグソーパズルのピース状になっているので連結させることができる)で立方体を作って中に閉じこもるが好きで。そして、そういった物理的な話に限らず、空間認識的な状況(抽象的に)でもそういうところがある。 「範囲が決まっていない状況にいると完全に混乱する」のだ、彼は。 そういう障害がある人が家族である場合、範囲の枠としての「お膳立て」は日常生活で不可欠になる。それは当人にとってもそうだし、周りの家族にとってもそう。「お膳立て」の方法や程度についてはいろいろ議論があるだろうし、何よりケースバイケースだと思うのだが、「ある程度は」絶対必要。それがないとみんな疲弊して消耗しきってしまう。
by liyehuku
| 2016-05-20 12:14
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