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2006年 10月 25日
私は自分のことを気が利かない人間だと思っており、他の人に自分のことを説明する時にもそう言うことがある。
私が自分のことを「気が利かない人間である」と言う時、客観的な事実として延べているというか、8~9割型は「もう今さら自分を『気が利く人』には改造できないな」という諦めの気持ちなので、たいていの場合、自分が気が利かないことにたいして特に自分を卑下しているという感じもしない。しかしそれでも、それが無神経の域に達して誰かを傷つけてしまったのではないかと思うような時には、激しく後悔してその後幾日も穴があったら入りたいような気分が続く。 しかし世の中には「気か利く人」(もしくは「よく気がつく人」)というのは実に多い。自分と比べてしまうから多いと感じるということもあるが、自分のことを横に置いて世の中を眺めてみても「気が利く人」はかなりの数に上るんじゃないかと思う。 だから誰かが自分の長所を述べる時に「気が利くこと」を挙げているのを一度も聞いたことがないのはとても不思議だ。 もしあなたが「あなたの長所は?」と聞かれたら何と答えるだろう。 絶対に「よく気がつくところ」とは答えないはずだ。 また、他の誰かが「あなたの長所は?」と聞かれて「よく気がつくところ」と答える場面も全然想像ができないと思う。 そういう意味で「気が利く」の類似語として挙げられるのは「優しい」である。 「あなたの長所は?」と聞かれて「優しいところです」と答える場面も同じくらい想像ができない。 何故だろう? 「気が利く」も「優しい」も自分のセールスポイントとして挙げるには具体的じゃないからだろうか? でも就職活動の際の採用面接でもない限り、「長所」にそれほど具体性が必要になるとも思えない。 それとも自分のことを「気が利く」と認識している人がいないからだろうか? そういう人が全くいないとは考えにくい。 世の中の「気が利く人」には他の人がいかに気が利かないかを嘆く人が結構いる。少なくともそういう人は自分のことを気が利く人間だと思っているはずだ。 ああ、そうか。だからなのか。 「他の人がいかに気が利かないか嘆く人」は自分が損していると思っている。 実際、傍目から見ても「気が利く人」というのはプラスの評価と共に損な役回りを引き受けることが多い。 気が利くことで何らかのプラス(例えばプラスの評価)を得ても、同時に被るマイナス(損な役回り)のせいで、プラマイゼロになったり時にはマイナスになったりするのかもしれない。 そこまでいかなくても、得たプラスに対して感じる満足感が少しでも損ねられるというのは、実際に被ったマイナスの程度がどれほどのものであれ、それ以上に損をした気分になるのだろう。 だから自分で「気が利くところ」が長所であるとは認めにくいのかもしれない。 こう考えてみると、人間を気が利くか利かないかという基準で測った場合、一番幸福なのは、「実際に気が利く人なのだけれど、自分では全くそれと認識していない人」 だと思う。 しかし実は、「私は気が利く」と自分で認識している人が「何だか損をしている気分」から解放されるいい方法がある。 それは「気が利くこと」を特技の一種だと考えることだ。 「私、基本的には右利きだけど左でも字が書けるんですよー」 誰かがそう言う時、その人はその特技から実際に自分がどれほどのプラスを得られて、どれほどのマイナスを被るかなどということは全く考えていない。 そういう風に「私は気が利く」と思えばいいのだ。 しかし世の中にはそれが特技にならないほど気が利く人が溢れているのかもしれない。 気が利くのは当然で社会生活を送る上のたしなみと見なされているのか。 私の知らないところで。
by liyehuku
| 2006-10-25 05:11
| Diary
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Comments(3)
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野猫
at 2006-10-25 10:16
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なんか、落語を読んでいるみたいだった。文体が。おもしろいし。
気が利くというのは魔法ではなく、パターンの中で生きていて、割りとそのバターンは数がすくなく。どちらかというと、単純明瞭なわけで… 文化的にいうと、作法なんだよね。しっかり作法をひとつを身につけると、未知な作法も読み取りやすかったりする。 ま、本当に不便しているわけでなさそうだから、他人と大差はないよ。 それより、まだ、あそこを一週間も利用していないのに、ナンパメールがきたよ。iyehukuさんも、英語が使える日本人として、ナンパされるのも、いいかも。ところで、気の利くゲー人はいるのかなぁ。
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liyehuku at 2006-10-26 05:52
>気の利くゲー人はいるのかなぁ
私が知っている外国人って限られているんですが、私なりに感じたことはあって・・・・・・。 まず、頭の中で「『気が利く人』と言えば?」で思いつくことを箇条書きにしてみます。そのうちあてはまるものが結構ある、という人は少なくないような気がします。 ただし、だからその人が日本で言うような「気が利く人」か、というとそうではない。 野猫さんがおっしゃるように作法なんですよね。それも本当に単なる作法というか。その分日本よりがっちり決まっていて、ここからここまでという範囲がはっきりしているので、それ以上のことを過剰には求められない。日本のように「気が利くか、利かないか」で人格が測られることもない。 そのせいか「あー、この人気が利くなー」と思っていたら、意外なところで無頓着極まりなくてびっくり、ということが多いです。 日本に比べて楽な気もするけれど、さらにそこからほんの少し視野を広げてみると、結局、その作法を守らなければ相手にされないということだったり。そうなるとその場にいてもいない人のように扱われたりするので、そういう意味ではシビアかもしれません。
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野猫
at 2006-10-26 13:04
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キリスト教の布教は、そんなところかも。で、日本の宗教観でいくと、抜けているところもあって…、ま、寛容なんだと思うよ。狼に育てられて少女は、狼のことがわかっても、人間のことはわからないだろうし……、奇跡の人もそうだけど、キリスト教の溶け込み方は強い。反面、三浦綾子さんは、目が見えない少女が目が見えるようになったら、一番信じていた人に失望してしまった自分に苦しみ自殺してしまうというようなことをテーマにしていたらしい。
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