結局、"Fielding's The World's Most Dangerous Places (Fieldings Worldwide)"の第5版をアマゾンに注文した。
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JICAによると、スーダンはアフリカ大陸にはあるが、いわゆるアフリカ諸国ではなくて中近東諸国の一つらしい。(参照)
極東ブログでダルフールの件に関する記事をいくつか読んだ。(例:「スーダン問題について」)
スーダンという国について1998年に出版された"Fielding's The World's Most Dangerous Places (Fieldings Worldwide)"の第3版で調べてみる。
情報が古びている部分も多いが、とりあえず概要となりそうな部分だけピックアップして以下に引用する。(訳はliyehuku。)
スーダン
"黒い潮流"
まず北部がある。乾燥した不毛のイスラムの大地。そして南部。黒い肌を持ち、ナイル川の恩恵を受けている人々の住むキリスト教の地。しかし南部の反逆者たちの黒い潮流はゆっくりと北部に迫りつつある。CIAの援助でSPLA (Sudan's People's Liberation Army=スーダン人民解放軍)は、黒い波のように北部側の駐屯部隊を包囲し制圧しつつある。また、まだはっきりとした動きは見られないが、スーダンが推定としてサウジアラビアに匹敵する量の石油を埋蔵していることも潜在的な潮流となっている。
スーダンに憑いているのは貧困(1人当たりの年間国民所得は330USドルである)や国土の大きさ(アフリカ大陸で最大)や、西洋への聖戦を呼びかける原理主義的な指導者が治めてきたという歴史ばかりではない。不毛のアラブ系イスラム教徒たちの北部と肥沃でアニミズム的な黒人たちの南部との間の境界は不安定で目印もないにも関わらず、うさんくさい区別よって分けられており、そのこともこの国を不具にした原因である。この二つの文化が協調した状態にとどまっていることはこれまでなかったし、スーダンに関して言えば、この先も決してないだろう。北部が部族主義的な南部に政治的に自分たちが欲するところを強いる限り、この二つの部族は争い続ける。
スーダンは国民の70%がイスラム教徒、20%がアニミズムを信仰し、5%がキリスト教徒である。これは、アフリカ大陸でなくてもまずい配分である。また、民族学的に言うともっと始末に負えないことに、52%が黒人、32%がアラブ人、6%がベジャ族である。南北の間の憎悪はこれまでに50万人以上の人びとの命を奪い、450万人の難民を生み出している。また100万人が餓死した。
反乱軍内の派閥同士でさえ反目しあってる。彼らは飢餓と恐怖を戦争の武器として互いに戦闘状態にある。SPLAの反乱軍は国際援助機関の要員を殺してきたし、敵対する派閥に食料や薬が渡ることを恐れて、空からの救援機に安全を保証しようとしない。
イランは、ポート・スーダンとスアキンにある基地の賃貸借契約期間が後21年になった時から、何千人ものイラン軍兵士をスーダンに配置し訓練を行なってきた。ポート・スーダンにはイランの資本によるラジオ局もあって、イスラム教やイランに関するプロパガンダをエジプトその他のアラブ諸国に流している。スーダンの戦略的な位置とイランとの神聖な同盟関係は紅海と「アフリカの角」地帯に圧倒的な存在感を示している。近年のイランからの干渉と、その結果すぐそばのイエメンで起こった民族紛争は、東南アジアで以前採用されたドミノ理論を引っ張り出してきて再利用するいいきっかけになるかもしれない。
イランはスーダンから戦略的な要所と全面的な協力を得る代わりに、この新しい友人に石油と武器を輸出している。また、スーダンには殺人と騒乱という新しい輸出商品もある。
この新しい輸出産業には副作用もある。その中にはニューヨークのワールド・トレード・センターへの攻撃、アルジェリアの原理主義グループによるアルジェリア防衛軍の兵士210人以上の殺害、エジプトでの旅行者や役人への絶え間ない攻撃などが含まれている。イスラム諸国の中でもエジプトはイスラエルに対して生ぬるすぎ、西洋化されすぎていると見なされているのだ。
スーダンは1952年に独立してから、軍事政権が続いてきたし、圧倒的な貧困から開放されることもほとんどなかった。1972年のアディスアベバ協定は南部に限定的な自治(矛盾した表現だが)を認め、アニャニャのゲリラ活動に対する戦争行為は終結した。ところが1980年代の初め、SPLAが全く同様の戦い始めることとなる。1984年にイスラム法が導入されると、SPLAは攻撃を激化させた。SPLAはキューバ、エチオピア、リビア、そして奇妙なことにイスラエルの協力を受けていた。1985年、クーデターによってニメイリ政権が倒れると、民主主義選挙が行なわれた。この「民主主義」は1989年に別のクーデターが起こるまでは続いた。1989年6月、現在の統治者オマル・ハッサン・アフマッド・アル=バシル将軍を擁したクーデターが起こったのである。
エチオピア人は1987年11月から首を突っ込み始めた。ハルツームは、リビアの飛ばすミグ25戦闘機を初めとしたイランとリビアの協力関係にどっぷり浸かっている。イラクやPLO (Palestine Liberation Organization=パレスチナ解放機構)でさえ南部を爆撃する作戦に手を貸した。
エチオピアはSPLAの相次ぐ快勝を黙認しつつも、メンギツが追放されてからはスーダンの問題に干渉はしていない。彼ら(SPLA?)は1993年春、もうちょっとでジュバの街を手に入れるところだったが、その時、ギャラングの副司令官リエック・マチャルが率いる派閥グループがSPLA/Unitedを興した。二つの派閥は戦いを始めた。1993年、南部SPLAの2つの派閥はお互いのメンバーを何千人も殺しあった後で休戦した。今でもCIAは彼らを仲良くまとめるのに忙しく動き回っている。
アル=バシルのイスラム原理主義軍事政府が、25年間に及ぶ内戦を終結させるために、長らく待たれていた反乱軍(SPLA)に対する攻撃を開始したのは1994年の春だった。何千、何万人もの難民がウガンダとの国境に向かって溢れ出すことになった。
今日、マラカルの南部から南の南部スーダンはジュバとスーダン政府軍の6つの要塞を除いてSPLAの支配下にある。しかし政府軍は孤立し、ハルツームからの交通は遮断されている。今にも攻撃されるかもしれないという絶え間ない心理的プレッシャーの中、彼らは塹壕を堀り、食料と医療品が日ごとに少なくなっていくのを見ているばかりだ。政府軍の部隊を比較的少ない要員で押さえ込みながら、SPLAのリーダー、ジョン・ギャラングは、最終的にはジュバとワウに戦略上配置された要塞を急襲するために、彼の武力と物資を整えている。彼は全くあせっていない。彼が待てば待つほど敵は弱るからだ。
ギャラングが南部にたんまり持っている物的財産は豊富な金、硬材、綿、茶、コーヒー、タバコである。戦争の一番激しい時でさえ、SPLAを支持する農家が米、トウモロコシ、モロコシ、ヤギや牛の余剰分でゲリラを賄えたほどその土地は肥沃である。
一方、北東部ではNDA (National Democratic Alliance=国民民主連盟)がポート・スーダンに繋がる要路(道路も鉄道も)を脅かしている。スーダン中東部地域でもでNDAはダマジンにある水力発電用のダムを一撃できる範囲内にいる。このダムはハルツームの電力の80%を供給している。NIF (National Islamic Front =国民イスラム戦線、または挙国イスラム戦線)は公には退却を認めていない。
以前のスーダンはおそらく西側諸国から最も援助を受けていた国だった。だが政府が湾岸戦争でサダム・フセインに協力した後、1991年にその大部分が削減された。スーダン国民は今や数少ない援助機関から緊急援助を受けているだけとなった。援助要員にはなかなか通行許可証やビザが発行されないし、時には逮捕されることもある。
政府は西洋の団体の多くはキリスト教の布教活動や情報収集のための手先だとして、イスラム系の機関のみに南部の政府占領地区での活動を許している。イスラム系援助機関としては最大のダワ・イスラミアはスーダン政府と密接な関係を持っているが、イスラム教に改宗しない限りは南部のキリスト教徒やアニミズム信仰者に食料を与えない。
スーダンは世界銀行から除名され、IMFからの融資を差し止められ(IMFの設立後、IMFから完全に除名される史上初の国になりそうである)、アラブ通貨基金からもアラブ経済・社会発展基金からも追放された。スーダンのインフレ率は年100%である。
【スクープ】
スーダンは、国の全土をイスラム教のきょうかたびらで徹底的に覆い尽くしてしまうことに執着する好戦的で過激なイスラム政府によって統治された、巨大で危険で醜悪な場所だ。ハルツームはテロリストの巣だ。自爆テロ、ハイジャック、暗殺、自動車爆弾、手榴弾、ユダヤ教会での妨害活動のための大掛かりな訓練キャンプがある。エジプトのムバラク大統領暗殺の陰謀に加担した3人の男は現在、スーダンで散髪をし爪を磨きVチャンネルを楽しんでいる。OAU(アフリカ統一機構)がこのチンピラどもの引渡しを要請しているにも関わらず。合計で推定15000人の戦闘要員がスーダンで生活し、訓練を受けているが、国連はこのアッラーのスズメバチの巣のことを知らないわけではなく、1997年4月、外交上と通行上の封鎖を突きつけた。
ハルツーム政府は反乱するSPLAを押さえ込むことに全力を注いできたが、SPLAの数はCIAの協力を得てスーダン南部と東部の戦闘で着実に勝ちを収めている間に膨れ上がっている。アメリカ諜報団が潜伏し、ここ何ヶ月もの間精密な調査に奮闘した結果、キリスト教徒が大多数を占めるSPLAについてやっと明らかになってきた。群雄割拠状態の司令官は階級によって細かく分けられている。エジプト、エリトリア、ウガンダ、エチオピアもまた、SPLA軍が筋骨隆々のスーダン部隊に太刀打ちできる規模になるように後押ししてきた。SPLAは別の反乱軍であるNDAと手を結んだ。NDAにはベジャ評議会武装軍も含まれている。この連合軍はエチオピアやエリトリアから西に向けて進撃し、軍の駐屯地に侵攻している。この共同作戦は現在に至るまでハルツームの政権を脅かし続けている。
エリトリアのアズマラを本拠地とするNDAはハルツームの紅海へのアクセスを遮断するように動いている。東部のいくつかの町を占領し、ロゼリアとカッサラの両方にあるダムの水力発電事業を脅かす姿勢を見せている。スーダンの多くの反乱軍がCIAの協力を得、エリトリアのキャンプで軍事訓練を行なっている。遠からず、NDAのリーダーであるファテイ・アフメッド・アリ将軍の指揮の下、全キャンプが統合されることが期待されている。エリトリアは自国が反乱軍を支援していることを隠そうともしていない。1994年12月、アズマラはハルツームと縁を切った。オマル・アル=バシルの顔に泥を塗るために、エリトリアは自国の元スーダン大使館をスーダン反乱軍の本部として提供したのだった。元アメリカ大統領ジミー・カーターは彼が世界のほかの紛争地域でやっているように、スーダンのガキ大将たちの壊れた関係を仲介してきた。1995年、彼は束の間の休戦状態を繕い直してお膳立てし、1997年4月には彼のニンジンに4つの反乱グループを食いつかせることに成功した。この4つの南部グループは厚かましくも限定的自治権、独立した国民投票権、武装の許可などを含めた501Kの驚くほど立派なお土産をもらった上で、SSDF (Southern Sudan Defense Forces=南スーダン防衛軍)を結成し、SPLAを抜けた。カーターが本国に帰った時、CIAからいったいどんなお灸を据えられたかは定かではない。
【プレーヤー】
(以下解説は省略)
ハッサン・アブドゥラ・アル=トゥラビ(Dr. Hassan Abdullah al-Turabi)
オマル・アル=バシル(Lieutenant General Omar Hassan Ahmed al-Bashir)
スーダン人民解放軍(Sudanese People's Liberation Army = SPLA)
国民民主連盟(National Democratic Alliance = NDA)
SPLA内のヌバ山岳地帯中央委員会(Nuba Mountains Central Committee of the SPLA = NMCC/SPLA)
リエック・マチャル配下の南部スーダン独立軍(Southern Sudan Independence Movement of Riek Machar = SSIM)
南部スーダン独立軍(Southern Sudan Independence Movement = SSIM)
ナフィ・オスマン・ナフェー(Nafi Osman Nafeh)
アル=ファテー・オラワ(General al-Fateh Orawa)
ハキム・アブ・サイード(General Hachim Abu Said)
イクファン兄弟(The Iqhwans)
スパイたち
チャールズ(カルロス)・パスカとアフリカの角におけるフランスの第2支局(Charles Pasqua and the Deuzieme Bureau in the Horn of Africa)
【非プレーヤー】
スーダンのヌバ族の数はかつて150万人近くと言われていた。一番最近で最も信用できる見積もりでいくと、その数はたったの20万人である。これは病気や疫病のためだろうか?とんでもない。彼らを難民キャンプに追いやったのはスーダン政府で、彼らにしてみればそれならいっそ南部の分離主義者の味方をしていた方がましだということになり、戦いを続けている。が明らかにこれもまた結果的に彼らの数が増えるのを妨げることになっている。
【入国するには】
(省略)
【国内を移動するには】
(省略)
【危険な場所】
(省略)
【危険なもの・こと】
(省略)
【病気】
(省略)
【基礎知識】
(省略)
【これまでの主な出来事】
(省略)
【危険地帯にて】
「スーダンにおける勝利」
(潜入記。とりあえず省略)
I have ordered the 5th edition of "Fielding's The World's Most Dangerous Places (Fieldings Worldwide)" from Amazon.
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According to a Web page of JICA's Web site, they say Sudan is not one of the nations of Africa, but one of the nations in the Middle East, though it is in the African Continent.
It was at Kyokuto Blog that I read about Darfur first. Darfur is the western area of Sudan. Now I am reading about Sudan in the 3rd edition of "The World's Most Dangerous Places" which was published in 1998. (I translated some which might tell the outline of Sudan into Japanese above though the information is not fresh.)