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2007年 04月 08日
隣家に住むK&D夫妻。
Kは地元の米軍基地に勤めており、昔ドイツの米軍基地に赴任した時、赴任パーティでDと出会った。 Dはもともとルワンダの出身で、12、3歳の頃難民としてドイツに移り住んで以来、ドイツを母国と思ってきた人である。ドイツでは永住権を持っていた。ウガンダ国籍のパスポートを持っているという話は聞いたが、米国籍がどうなっているのかについてはわからない。 半年ほど前に「運転免許証を取得するのに必要な書類がもうすぐ揃う」と言っていたので、先日、「免許証はもう取れた?」と尋ねたら、「指定された面接の日にはマイアミ(Kの実家がある)にいる予定だったので面接日程の変更してくれるよう言ったら、半年後になると言われた」という返事。運転免許証の取得自体に面接が必要という話は聞いたことがないので、それに必要な書類を得るのに面接が必要なのだろう。ということはまだ米国籍は持っていないのかもしれない。(*1) 軍人は出張や転勤も頻繁だ。Kにも近いうちに海外に長期出張の話が出ているのだそうだ。 「○○へ行くの。行く必要なんてないのよ。だって彼らがすることなんか何もないじゃないの」 とD。 「だいたいね、アメリカって何で自分たちとは関係ない国の戦争に首を突っ込むわけ?」 テネシー住んでいた頃、ジャックダニエルズの工場があるので有名な田舎の小さな観光地に行った。 昼食を摂るためにレストランに入り、注文した料理が出てくるまでの間、店内をぼんやり眺めていると、天井一面にいろいろな広告が貼ってある。どれもわりに年季が入っている。その中に地元の退役軍人団体かどこかが出したものがあった。"When Wars Are Won, Problems Are Solved, Lies Are Swapped"と書いてある。 "Lies Are Swapped"の意味がわからない。「嘘は交換される」?嘘は本当になるってことだろうか。そう捉えてもその真意がわからない。それでもそこに(または、私が「真意を捉えきらない」ということに)日米の戦争に対する考え方の違いがあるのかなあという気がした。 そして意味がわからないなりに、 「その通り。戦争は絶対的な悪だよ。悪だけど問題を解決するのに使わざるをえないこともあるのが現実。その悪を現世的に消化するために『勝った方が正しい』というルールがあるんじゃないか」 と言われているような気がしたのだった。(*2) 私は日本の戦後教育を受けているせいか「戦争は絶対的な悪だ」という時点で思考が停止する。しかしそれでも「戦争は起こってしまう」ということは知っている。 戦争が開始される直接の契機そのものは政治的なもので、個人としての国民がどうにかできるものではないが、それを支える考え方として「戦争でしか解決されない問題がある」という考え方があるということも知っている。少なくともその考え方によって、「現与党に投票したのは国内政策が他の党より優れていたからで、戦争自体を望んでいたわけではない(たまたま、というか結果的に戦争とセットになってしまっただけ)」とか「まさか本当に戦争になるとは思っていなかった」という人たちが、事後的に戦争を消化する(或る程度正当化して受け入れる)ことができるだろう。そういう意味でどうしてそう(「戦争でしか解決されない問題がある」と)考えるのかということも理解しようと思えばそうできる。 しかし、Dの言うように「何故、米国が?」(「仮に戦争で問題が解決されることもあるとして、どうして米国が他国の戦争に関与するのか?」)ということについてはわからない。米国民がそれぞれそれをどのように納得して受け入れているのかということがイメージできない。 前々回、前回と、バイブルスタディは2週にわたってActs(使徒行伝または使徒言行録)だった。普段はテキストに沿って講師が講義するだけだが、この2回は再現ドラマのビデオを観ながらの講義だった。 Actsの中で繰り返されるのは、使徒の使命がGentilesにイエス・キリストの教えを広めることにあるということだ。Gentilesを辞書どおりに訳すと「ユダヤ教徒からみた異邦人、異教徒」ということになるが、バイブルスタディの時、私はそれを「ユダヤ教徒とかローマ人などという『特定の人たち』ではなく人類」を意味するのだと思った。 米国に住むクリスチャンの多くは聖書に登場する人たち(民族)ではないだろう。血縁的に多少関わりがある人たちもいるだろうが、そういう認識を持つ人は少ないと思われる。 彼らがActsを読むと「使徒がGentilesに対して教えを広めなければ自分たちはクリスチャンではなかったのだ!」という気持ちがするのではないだろうか?ちょうど私が娘を見て「私が夫と出会わなかったらこの子は生まれなかったのだ!」と思うように。今、ここに確かにいるものがひょっとしたらいなかったかもしれない、全然違うものだったかもしれない、と考えるのは不思議な感じがする。私の場合でいえば、驚きを感じるし落ち着かないような奇妙な感じがするし、同時に大きな喜びを感じる。 講義やビデオの中にそういうものがあったから-たとえそれが観る者をそう感じさせようという演出であったとしても-私はGentilesを(「ユダヤ教徒からみた異邦人、異教徒」にとどまらない)「人類」だと思ったのではなかろうか。 私が米国に来てから出会ったアメリカ人はクリスチャンばかりだった。(少なくともほとんど全てがそうだと言ってもいいと思う。) そして私が出会ったクリスチャンのアメリカ人の多くは「自分がクリスチャンである」ということを何らかの機会があれば進んで表明した。しかしそのうち、ほとんど全ての人は自分が何の宗派に属しているかについて語るのを避けるようなところがあった。 どうやら「いろいろな宗派はあるけれどクリスチャンはひとまとまりとして見て欲しい」という気持ちが強いようなのだ。 実際には、自分たちは自らをキリスト教徒だと見なしていても他の宗派からは異端(とまではいかないが少なくともそれに近いもの)であると見なされている宗派もいくつかあるし、そうでなくても自分が信仰している以外の他の宗派に対して思うところ(何か否定的な見方)が全くないというわけではないと思う。 それでも必要がなければできるだけ宗派別に考えないようにしようと努めている人がほとんどだ。 正確な引用はできないが、新約聖書には 「善きサマリア人はキリスト者である」 とか 「人は信によってではなく行いによって救われる」 という箇所がある。(*3) 多分そのせいだろう。クリスチャンは相手がクリスチャンでなくても(例えば相手が「私は仏教徒です」と言っていても)相手が自分の許容範囲の人なら「それでもOK。私はあなたをクリスチャンと見なすから。だってあなたいい人だもの」と言ってしまうようなところがある。 「懐が深い」といえなくもないが、ちょっとばかり乱暴だと思うこともある。特に私のように仏教徒でもムスリムでもなく無宗教で、しかも「キリスト教と聖書に興味があります」という場合はややこしい。クリスチャンにしてみればキリスト教と聖書に興味がある私はクリスチャンみたいなもので、「もうクリスチャンってことでいいんじゃない?」と思うのかもしれないが、私にしてみれば「興味はあるけどクリスチャンではない」という部分が重要なのだ。クリスチャンと見られると困ることだってある。 例えばこんなことだ。 テネシー時代の知り合いから「うちの教会でちょっと聞いたんだけど通信教育のバイブルスタディがあるらしいわよ」という話があった。 引っ越したばかりでこの辺りのことがよくわからない上に、小さな娘を抱えて外出がままならなかった時期だったので彼女を通じてとりあえず頼んでみたら、教会の担当者から分厚い封筒が届いた。中にはIntroductionの冊子が16冊と15人の氏名と住所が書かれたリストが入っていた。住所はどれもアフリカのケニアのものだった。 このバイブルスタディはWorld Bible School(WBS)という組織が行なっているものらしい。冊子の中程のページにteacher(またはhelper)とstudentの氏名と住所をそれぞれ書く欄が、裏表紙に送り主(teacherまたはhelper)と宛先(student)を書く欄があり、私はteacherだかhelperとしてリストを参考にその欄を全て埋め切手を貼り、15冊全部まとめてテキサス支部だかどこかに送る、というのがWBSのシステムらしかった。 私はためらった。何をためらっているのかうまく説明できる自信はなかったが、レッスンをこのまま進めるにあたって感じている不安を解消するべく送ってくれた担当者に手紙を書いた。 まず私が確認したのはこの冊子を送られる人たちはどういう人たちなのかということだ。彼らはクリスチャンなのか?少なくとも聖書について学びたいと思っている人たちなのか? 次に確認したのは、彼らにこれを送ることで私が彼らからどう見られるのか、ということだ。多分、クリスチャンと見なされるだろう。でも私は自分をクリスチャンだと認識していない。そこが一番の問題だ。 もし私がクリスチャンになるとしたら、教会とどういう関係を持つかということをはっきりさせる必要がある。洗礼を受けるかどうか?受けるならどの宗派に属するかをはっきりさせるべきだろう。受けないなら?教会とどういう距離を持つのかはっきりさせなければならない。受けない場合、私は何によってクリスチャンであるのか。 「何によってクリスチャンであるのか」ということは、内部の人間にとっては外部の人をどう見なすかというだけの問題なので「善きサマリア人はキリスト者である」「人は信によってではなく行いによって救われる」ですむ。しかし外部の人間にとってはそれでは済まされない。 いや、それより何より、まず私は「自分はクリスチャンではない」と思っているのである。それはそれとして尊重して欲しいという気持ちが強かった。 それを理解してもらうのに骨を折った。結局、WBSのバイブルスタディは辞めたのだが、相手がその理由を理解したとは思っていない。 「何故米国が?」という理由はそこにあるような気がする。 *1(2007年5月14日追記): はっ、外国籍の人が米国市民と結婚して取得するのは永住権だった。(最初の2年間は条件付きの永住権で2年以内に手続きを済ませると条件が外れる、ということはさっき知った。そういえば、映画『グリーンカード』も確か、フランス人男性が永住権を取得するために米国人女性と結婚する話だったよなあ。) *2(2008年8月8日追記): swapというのは基本的には「交換する」いう意味で、もしそうなら、 「戦争中には双方の国にそれぞれ、明るみにできない後ろ暗いところがあるが、決着が付けばそういうところをお互いに情報公開することができる」 という方が素直な解釈であるようにも思う。 *3(2008年8月8日追記): これは確か後日記事で訂正した。 いわゆるキリスト教的な立場としては「人は行いではなく信によって救われる」。つまり私が記憶していたのとは全く逆。「人は行いではなく信によって救われる」は新約聖書のパウロの書簡の中に出てくる。特に米国のプロテスタントはこれを重視し、時にカトリックの祭祀的な部分、形式主義を批判する時にも用いられる。
by liyehuku
| 2007-04-08 15:21
| USA
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