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2008年 05月 25日
この頃いろいろなことをつらつら考えていて以前ここのコメント欄に書いたことを思い出した。
あの時確か、 仮に全く同じ経験をした2人の人間がいたとしても、あの人とこの人ではそこから受け取ったものが全然違うかもしれない。 例えば、或る出来事の渦中に傍から見れば同じような立場でいた2人でさえあの人とこの人ではそこから受け取ったものが違う、というのは多分よくあることで、むしろお互いに近い立場にある分、逆にそのズレが全く蚊帳の外にいる人に対して感じるよりも大きく感じられることもあるのだろう。 もちろん、同じような経験、同じ出来事を通して共有できる部分というのは決して小さくはないけれど、その部分がどんなに大きくても、必ず自分の中に言葉や何かで他者に伝えられる形では表現できない部分が残る。そういった意味で「経験」というのはごく個人的なものであるといえる。 それは「誰のものでもないその人自身のもの」(経験の不可侵性)ということでもあるし、また同時に「孤独」ということでもある。 「年齢を重ねて経験を重ねる」ということは、そうやって個人個人にちょっとずつ抱える孤独が増えるということなんじゃないかと思う。 という意味のことを書いたのだった。 今もそう思っている。 昨日の記事で書いた「自分の感情は自分のものだし、それと同じように誰かの感情はその誰かのものだ」もそうだが、こうした持ち物は他人と自分の境界線をはっきりさせる。それはつまり、その分だけ孤独になるということ、別の視点からいえば、それだけの孤独を自分に確保する、ということであると思う。 よく、主に物理的な意味(例えば、家族や友人を失うということ)、心理的な意味(例えば、そういった物理的な孤独を寂しさとして感じるということ)で「歳をとると孤独になる」というけれど、つきつめていえばそういうことなのではないか。 そして、そういう精神的な孤独みたいなものは年齢を重ねるにつれて誰しも抱えるものでそれは避けられないことなのではないか、と思う。 自分の抱えている(またはその可能性がある)孤独のうち、どれが必要なもの(人によっては必要悪としか捉えられないかもしれないが)でどれがそうでないのか、ということは案外自分の認識次第でどうにでもなるものなのかもしれない。 持ち物なら手放すことができる。 とはいえ、ここで挙げたのは誰かにあげたり(=誰かと共有したり)捨ててしまったり(=忘れてしまったり)することができない「持ち物」だ。 「手放す」とはつまり「執着しない」ということである。たとえずっと手放していることはできなくても、ちょっとの間放り出すことくらいはできる。
by liyehuku
| 2008-05-25 21:40
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