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2026年 02月 25日
上の子(成人済み)から「お母さんがこれまで読んだ中で気持ち悪いなあと思った小説があったら教えて」と言われたので、ちょっと趣旨が違うかもしれないと思いつつ、チャールズ・ブコウスキーの『淫魔』とジョルジュ・バタイユの『眼球譚』を挙げた。もっと別の、たとえば村上春樹の小説とか、そういう方向性のものが良かったかもしれない。どの小説だっけな。何にせよ、時々、すごく気持ち悪いものが出てくることがあるよね。
上の子「そういえば『悪童日記』も相当だよね」 彼女が高二だったか高三の時だったか、本人からの希望で私がクリスマスプレゼントに選んだ本の中に『悪童日記』を入れたら気に入ったらしく、そこから小説に開眼したようなところも窺える。 上の子「『淫魔』とか児童ポルノ法に引っかかったりしないのかな?」 私「表現の自由というものがあります。とても重要なことです。(中略)だいいち、それを読むか読まないか、読む人が選べるでしょ。強制的に読まされる状況ってまずないよね」 上の子「『時計じかけのオレンジ』みたいな状況だったら(何らかの犯罪が)成立しそう」 食事中、子等と国語の話になった。 下の子「国語の授業は最低限でいいと思う。漢字とか小論文とか。小説は要らない。小説やるなら他に時間を回せばいい」 私「いや、要るんだよ。小説には読み方があるんだよ」 下の子「そんなの、個人でやれば良くない?授業でやる必要ない」 私「個人でやればいいっていうのは”教育”じゃないよね。教育は社会的基盤だから、やりたい人がやればいいとか、できる人がやればいいというものではない。お母さんは、小説の読み方は教育としてやるべきだと思っている」 下の子「そんなのノンフィクションで良くない?小説って本当のことじゃないじゃん」 私「フィクションとしての小説にはそれ用の読み方があるのよ。あと、お母さんの話だけどさ、20年…15年くらい前かな、村上春樹とかアントニオ・タブッキという作家の小説を繰り返し読んでいた時期があって。そうなるともう何が書いてあるかわかってるわけじゃん。でも読むんだよね。頭の中が整理されるというか、デフラグされる感じがするの。何が書いてあるかより、どう書いてあるかが重要なこともある」 下の子「でも、中学、高校でやる必要なくない?」 私「小学生には紹介できないっていうか、小学生には読めない小説が山ほどあるのよ。小説に限らず、その年齢だと読めない小説ってある。中学生には中学生の、高校生には高校生の、そういうのがある。確かに、あなたには小説は要らないかもしれないけど、でも小説が必要な人もいる」 下の子「だからさ、必要な人だけやれば良くない?」 私「確かに”小説が必要な人と必要がない人がいる”とは言ったけど、必要がない人がずっと必要がないわけではない。ある時、必要になることもある。逆に、必要がある人が必要としなくなることもある。たとえばお母さんね、昔は読んでたけど、今はほとんど読んでない。何というか、そうだねえ…たとえば、あなたには今、車椅子は必要ないけど、怪我や病気で足が動かなくなったら使うよね?」 下の子「それはその時に使い方を覚えればいいじゃん」 上の子「そこはたとえとして出すなら…社会制度とかじゃない?」 私「ああ、そうか。たとえば、生活保護とか?生活が苦しくなって食うに困って後は死ぬしかないみたいな状況になった時、生活保護の制度があるのを知っているかどうかは生死を分けるよね。あと、あの制度って知ってても、申請を受け付けてもらうにはいろいろコツがある。誰に相談するか、誰と一緒に行ってもらうか、そういうことを知っていないと、一人で窓口に行って申請してもまず受け付けてもらえない」 上の子「あとさ、小説をたくさん読んでいると、ゲームとかアニメで話題になっているものの元ネタがわかって面白いよ。私、『ちびまる子ちゃん』で好きな場面があって、丸尾くんが”うおーっ””たぁああ”って言うとこ。あれ、元ネタがヘレン・ケラーなんだよね」 私「(下の子に)ヘレン・ケラーってわかる?」 下の子「(慌ててスマホでネット検索して)政治活動家、障害者の権利のために活動した」 私「彼女がなんで障害者の権利のために働いたか、その理由はわかる?」 下の子「えーっと…」 私「サリヴァン先生って知ってる?」 (中略) 下の子「でも、知らないなら調べれば良くない?ネットで調べられる」 私「でも自分の中にあらかじめインストールされてれば、それだけその時点で楽しめるものが増えるでしょ。あと、ネットだと案外わからないことも多いよ。間違ってる情報も多いし」 いつか下の子に「小説が必要な時」が訪れることはあるだろうか。 無きゃ無い方がいいんだけども…とちょっと思ってはいるのだが。
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by liyehuku
| 2026-02-25 09:50
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2026年 02月 23日
下の子がテーブルのタブレットでメニューを閲覧中にエビフライ寿司を発見、家族の話題になった。滔々とエビフライ寿司を糾弾し始める上の子。やんわり止めるが調子に乗っている。 私「あのねえ…。思ったことを何でも口に出すんじゃなくて、言う前に10秒くらい考えてほしい。まあうちはお父さんがわりと思ったことをそのまま口に出すタイプだからそれに似たのかもしれないけど。今はとりあえず10分間くらい黙っておこうか」 夫「でもお父さんは経験から学んで改善したよ」 私「ああ、確かにお父さんは努力しているね」 夫「いや、そうじゃなくて。お母さんと出会った頃には既に学んで改善していた」 私「えっ…(あれで?)」 夫「お父さんは昔は何でも思ったことを口に出していて、いろんな人を怒らせた。殴りかかってきた人もいるからね」 私「そういえば、お母さん”お前殺すぞ”とか”殴るぞ”とか言われたことあるな」 下の子「似た者夫婦じゃねえか」 私「まあそれはそう」 #
by liyehuku
| 2026-02-23 14:21
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2026年 02月 20日
結局「推し」って何? 専門家に聞いてみた
この動画の中に「コアがある人/コアがない人」の話が出てくる。 上の子が高校3年生くらいの時、私が彼女をどんな人だと思っているか聞かれたことがある。一通り迷った後で結局、「ガワはあるが中は空っぽに見える。これから満たしていく必要があるのではないか」という意味のことを伝えた。それを聞いた彼女に大きな動揺は見られなかったが、その後、折に触れて「空っぽってどういうこと?」と聞いてくるのでそれなりにショックではあったのだろう。そういう私自身はどうなのかといえば、「自分の中身は空っぽじゃない気はするけど、それほど自信がない」といった感じで、「空っぽってどういうこと?」と彼女から聞かれても明確に説明することができなかった。 上の子と接していると時々、どうしようもなく居心地の悪さを感じることがある。そのことは長い間、親として私の大きな悩みだったのだが、本人と「彼女が空っぽであるとはどういうことか」についてやりとりする中で、少しずつその居心地の悪さが何なのかがわかってきた。おそらく、私は彼女と接している時に「自分のコアが乗っ取られそう」と感じている。つまり私にはコアがあるのだ。他者(この場合は上の子)から侵食されることで初めて強烈に自分のコアを感じている。(上の子はよく私のことを「外付けハードディスク」と呼ぶが、実際に私に求めているのは記憶媒体ではなくプロセッサである。) こうなると次に「コアとは何なのか」という話になるのだが、私の場合、「何なのか」というより「どこにあるのか」が重要になってくる。ここから先は便宜上ユングの提示した自己モデルで説明していきたい(参照:河合隼雄『無意識の構造』)。 私のコアはおそらく無意識の領域か、自我の中でもそれに近いところにある。 以前からたびたび無意識と自我の境界にある壁について語ってきたが、私はその壁が薄い。この度、「自分のコアが侵食される不安」について考える中で思い至ったのは、薄いのは無意識と自我の境界の壁だけではないということだ。自我全体の境界の壁が薄いし、他者と自己を隔てる境界の壁も比較的薄い。コアが奥の方にあるので油断しているのかもしれない。上の子から受ける侵食も、コアに接触するまでは防御のためのアラームが機能していない可能性がある。 無意識と自我の境界の壁が厚い人は自我全体の壁も厚いのだろう。自己の壁も厚めなのだと思う。境界の壁が厚ければどこにコアがあっても他者からの影響を受けにくい。何なら中にコアがなくても自我そのものがコアであるとか、自己そのものがコアであるとか、そういう捉え方もできるのかもしれない。「自分とは何か」って結局、玉ねぎを剥いていくみたいな話だしね。 最近、これまであまり縁がなかった恋愛漫画をちょくちょく読むようになって(BLもそうですね)、自分が何をそこに求めているのかを自分なりに分析してみた。一つに「一対一の他者との関わりの中で、登場人物が自分の輪郭をはっきりさせていく様」が見たいというのがある。周囲とうまく馴染めないという感覚を持つ人は意識が自分の内側に向きがちで、その分、自分の輪郭が曖昧になりがちだ。自分の輪郭が曖昧ということは、自己と他者の境界の壁が薄いということでもあるので、容易に他者を寄せ付けない。ふとしたきっかけでそういう人が他者と接触を持ち、その反応としてそれまでになかった感情が生まれ、それが育っていくことでその人の輪郭が形作られる過程を見たい。生まれたての感情(=感情の赤ちゃん)が見たいというのもある。 上の子について「ガワはある」と言ったが、それは強固なものではない。関心が自分に終始していて輪郭が曖昧なのだと思う。だから私に対する侵食が容易なのだ。お互いに境界の壁が薄い。下の子も私に対して侵食してくることがあるが、その場合はこちらのコアに接触するかなり手前の段階でアラームが鳴っているような感覚がある。下の子には彼自身のコアがどこかにあってそれが関係しているのだろう。上の子にはコアがない。 現在、彼女は大学生である。彼女についていくつか懸念があって、彼女の将来について話すのに良い機会だとも思ったので、先日、私から、 「この先、どうなるかわからない部分は大きいとは思うけど、最終的に自立して家を出るということを目標に自分の人生をデザインしてほしい。どうなるにしろ、それに合わせてデザインしてください」 と告げた。 「あなたと接していると、私は自分のコアが乗っ取られそうだと感じることがある。その辺の線引きをするのがお互いに難しい以上、私とあなたがずっと同じ家で暮らすというのは無理がある。私が自分の実家を離れたのも、(今思えば)そのままいたら自分のコアがなくなると思ったからで、せっかく守ったものをここで明け渡すわけにはいかない」 #
by liyehuku
| 2026-02-20 11:00
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2026年 02月 04日
最近のYouTubeは動画一本の時間が短くなる傾向にあって、自分の気分に合った作業用動画を探すのに苦労している。再生リストをいろいろ作って工夫しているが、ちょっと目先が変わったものを流したいなあと思い、ボイスコミックを流してみた。ジャンプの公式チャンネルなんかにも30分程度のまとめ動画がある。
ただ欲を言えば、作業用動画にするには最低でも1時間くらいは欲しい。そう考えていたらおすすめにBL漫画のボイスコミックが散見されるようになった。まとめ動画だと1〜2時間のものが多い。YouTubeで公開しているものなので性描写のシーンはだいたいカットしてあるし、これでいいかもなといろいろ流してみた。 性描写はカットされているとはいえ、規約に違反しない程度には残っているので、家族が家にいる時には流さない。一人でいる時に流して「うわあ…」「ひゃあ」「なんじゃそりゃ」とか言いながら作業している。BLはこれまで縁がなかった分野なのでいちいちびっくりしてわりと気が散る。やはり向かないかもしれない。 でも、どんな分野でも面白いものはやはり面白い。YouTube動画をきっかけにいくつか電子書籍で購入した。 そういう経緯で『スモークブルーの雨のち晴れ』を最新巻まで読んで本当にびっくりした。 「心に刺さった」というか「心臓を持ってかれた」感じがする。 死ぬじゃん。どうしてくれんの。 老眼の進んだ人間には便利な電子書籍だが自分の心臓を託すのは心許ないので、紙の本を買い直すことにした。買い直すなんてこと今までしたことがないよ。 漫画を紙の本で買う時は基本的には家族と共有したいかどうかで決めている。誰かに読んでもらいたいという気持ちもあるんだと思う。性描写がガッツリ入っているので子供たちに勧めるのはちょっと難しいけども。 とはいえ、「性描写が無ければなあ」とは全く思わない。それが無いと成立しない作品だと思う。 ところで、私がこの作品の何に心臓を持っていかれたのかといえば、それは「吾妻朔太郎という人」である。 久慈が吾妻のことをすごく好きなのは物語の早い段階から伝わってくるし、そのことを通して久慈がどういう人なのかはわりと早い段階でわかってくる。 それに対して、吾妻がどういう人なのかは最初の段階ではぼんやりとしかわからない。環(吾妻の甥)が初対面の久慈に語る吾妻像も、その時点では「身内贔屓」や「環の子供っぽさ」に見える。 それがエピソードが積み重なるにつれ、「ああ、吾妻って本当に環が言っていたような人なんだな」というのがわかってくるのだ。吾妻の姉やその家族(環だけでなく、おそらく義兄も)が吾妻に協力的なのも、吾妻がそういう人だからなんだろうな…というのがだんだん腑に落ちてくる。(そして、序盤で描かれる「無断外泊して同居の姉に怒られる38歳無職男性」が理解できるようになる。) 久慈が吾妻に、 「お前はなんで 俺の為には泣けんのに 自分の為には泣けねぇんだよ」 と声をかける場面がある。「久慈のために吾妻が泣いた」のは、居候の吾妻が久慈の実家で過ごす最後の夜に久慈の背中で流した涙のことだろう。 実家の建て替えについて、久慈は頭では理解しつつ、会社を辞めて父親と過ごした時間が無かったことになるような、やり場のない思いを抱えていた。 酔っ払って負ぶわれながら吾妻は久慈に 「久慈 よく頑張ったよ お疲れ 家族の為 家の為に よく頑張った えらいぞ お疲れさま久慈 あの家は お前によく似合っていた」 と声をかけるが、それは「久慈の気持ちに寄り添っている」というのとは別の何かに見えた。そもそも吾妻自身が久慈の実家に対して愛着を感じ、去り難く思っていて、そのこと自体が久慈が自分では表に出せない感情を代弁している。いわば、吾妻が吾妻であることで、吾妻の存在そのものが、結果的に久慈の気持ちを支えたように見える。 原さんという人が出てくる。私は原さんのことがとても好きなので親愛の情を込めてさん付けで呼ぶことにする。彼女のことをいいなあとしみじみ思ったのは、吾妻が原さんに 「原さんのこと大切な友人だと思ってるんで おれの事信じて欲しいんです」 と言った場面である。吾妻の目を通して原さんを「大切な友人」として見たのかもしれない。 エピソードを重ねるごとにMR時代に久慈がなぜ吾妻に惹かれたのかもよくわかるようになるし、何なら、久慈の肩をポンと叩いて、 「退職の時にいったん完全に諦めたにもかかわらず、再会するまでの8年間、ずっと吾妻のことを忘れられなかった気持ち、よくわかるよ…」 と労いたくなる。 吾妻朔太郎は優しい。 彼の優しさっていったいどういうことなんだろう、と思う。 あれは人生の早い段階で自分がマイノリティであることを内面化した人の優しさではないか。
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by liyehuku
| 2026-02-04 23:37
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2025年 11月 17日
大学時代の友人に、私と同じように日本企業の海外駐在員の帯同家族としていくつかの国を転々としていた人がいて、彼女と会うとよく、 「私はこれまでゼロからやり直すことが度々あって、その度に世間の中で自分の扱いが激変するのがわかった」 という意味のことを言う。 「ゼロになる」というのは、直接的には「彼女の社会的立場が」ということなのだけど、彼女の話をさらによく聞くと、社会的立場がゼロになるということで自分の価値がゼロになっているように感じているようなのだ。 先日会った際、この点を指摘した上で、 「仕事を辞めた時も、転居した時も、確かに大変ではあったけど、私の場合、自分がゼロになった気はあまりしなかった」 と言った。 一つには、仕事の業績の有無があると思う。 私と彼女は大学を卒業後、新卒採用でそれぞれメーカーと銀行に就職した。その後、それぞれの配偶者が海外に転勤する際に仕事を辞めて帯同家族として数年間現地に住んだ。 私はそれ以来専業主婦だが、彼女はそこから本帰国して次の海外赴任(帯同家族として)までの間、正社員として働いていた。数年前に何ヶ国目かの海外生活から戻ってきた後も、彼女はパートタイムで働いている。 就職活動でアピールできる業績という点でいえば、私のはほぼゼロなのだった。 私の社会的立場は、提出する書類によって「専業主婦」だったり「妻」だったり「母」するが、それがゼロなのかプラスなのかマイナスなのか私にはよくわからない。何となく、そういう風に捉えるものではないと薄っすら思っている。 「私には業績らしい業績がないのよ。新卒で就職したメーカーでも業績を積む前に青年海外協力隊に参加してるし、青年海外協力隊に行ったことは日本の社会的には何の業績にもならないからね。私の中で経験としての蓄積はしっかりあるけど、それは日本では社会的に意味がない。日本に帰ってきてすぐ結婚して仕事を辞めてるし、仕事の業績は本当にほぼゼロなんだよね。だからそれを拠り所にはできない」 「あと、あれだ。人間の中に意識の領域と無意識の領域ってあるじゃん?」 ユングでいえば、意識の領域は自我、意識と無意識を両方併せて自己である。 友人は今、大学で心理学を学んでいる。 「あの壁がね。薄い人と厚い人がいる。私は薄いんだと思う。襖とか障子とかその程度。だから全く知らない場所に引っ越して大変な時期でも、無意識の方から何かしら引っ張り込んでくるから、意識下の領域がゼロにならない。ただ、変わる。変わるというか変容したという感覚はある」 「じゃあ私の壁はどれくらいなのよ」 「さあねえ。普通の家の壁くらいはあるんじゃないの」 壁は薄ければ良いというものではない。外からの刺激に弱くなるし、日常的に無意識の干渉を受けるので精神的な不安定さを抱えて生活することになる。 反対にあまりに壁が強固過ぎると、人生の転機になるような大きな出来事や加齢などに伴って、突然、無意識と接触した時の動揺が大きい。生死を左右するようなこともある。 当たり前のことだが薄い壁と厚い壁、どちらにもメリットとデメリットがある。 ちなみに、友人は人と会うと元気になるタイプ、私は人と会うとぐったり疲れるタイプである。 「え、じゃあ何、今、私と会ってるのも疲れる?」 「まあ、そういうことにはなるんだけど、別に”運動すると疲れる”とか”運動したら筋肉痛になった”くらいの話だよ」 私の場合、家族と居ても疲れるしねえ。
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by liyehuku
| 2025-11-17 08:45
| Diary
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