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2009年 02月 23日
うまく考えがまとまらないのだけれど、ずーっともやもやもやもやしているので、とりあえず今考えていることをメモ。
バングラデシュやアメリカで暮らしてみて、いかに信仰というものがその人たちの生活やその人の本質に根ざしているものであるか、ということがわかってきた。 そしてその上で見てみると「私は無宗教です」(「私は特定の宗教を信仰していません」)という場合、「私は特定の宗教を信仰しないという宗教的立場を採っています」、つまり「特定の宗教を信仰していません」という態度自体を一つの信仰(宗教的立場)と見なさなければ、そういう人たちと同じ土俵で対話をすることはできないのではないか、と思うのだ。 もちろん、そんな人たちと対話なんかする必要はない、宗教なんて壁にしかならない、ということもできる。しかし、そういう立場は「特定の宗教を信仰している人」を排除することにしかならないのではないか? 例えば、同性愛に関して「それを矯正しようとするのはおかしい」という立場がある。確かに異性愛者である私に今さら「同性を対象にしなさい」と強いられても私には苦痛だ。 「あんたたち、そんな宗教なんて信じてるの、おかしいからやめなさい」というのは、異性愛者である私が同性愛を強制されているのと同じようなものだと思うのだ。 日本以外の多くの地域では、信仰を持っているということはとても重要なことであり、それを持っていないということはその人に何らかの人格的な欠陥があるのだと見なされるという風潮がある。 とすると「宗教なんか壁にしかならない」「相手が信仰を持っているという立場を捨てない以上、対話なんかする必要ない」と考える無宗教の人たちの考えは孤立しか生まないのではないだろうか? 先週ブログ界隈で、村上春樹氏がエルサレムで行なった「卵と壁」のスピーチが大きな話題となった。 多分、村上氏はそういうことがわかった上で、あえてスピーチの中で特定の宗教を示唆しない表現を採ったのではないかと思う。 スピーチの全文を読んでみて、私は、アメリカ人のプロテスタント系クリスチャンには「真実を把握することがいかに難しいか」「善悪を決めるのは誰なのか」ということがぴんとこない(そういういう自明のことを何故今さら問題にするのか?)人が多いのではないかと思ったのだ。そして、ひょっとしたらユダヤ教やイスラム教を信仰する人の中にもそういう人が意外に多いのではないか、とも思った。(ひょっとしたら村上春樹氏の作品は日本では「(内容の難易は別として)平易な表現」だが、そういう地域では「難解な文学小説」として受け止められているのではないだろうか。) そして、おそらく村上氏にはそういうことはわかっていて、その上でそういう人たちにとってはわかりにくいであろう表現をあえて選択したのではないか? 彼のnatureからそうせざるを得なかったという意味では他に選択の余地はなかったのだ。 そこを抜きにして彼のスピーチを「素晴らしい」と褒め称えることは、大事な何かを見落とすことになるのではないか? こういうことはとても個人的なことだ。以前、アメリカ人の知人(クリスチャン)は「私は信仰はとても個人的なことだと思っているから他の人とはそういう話はしないの」と言っていた。 私が今もやもやと考えていることは、誰かに伝えてどうこうするというものでもないのかもしれない。そもそもきちんと言葉にすることは不可能なのかもしれない。プロの物書きが最終目的にするような、何とかしてそれを他の人に伝えるべく日々言語化に挑んでいるような、そんな事柄なのかもしれない。 そう思いつつ、自分のもやもやがいったいどこからやってきてどこに向かうのかわからないでここ何日か悶々としている。(どれくらいもやもやしているかといえば、ちょっと熱が出そうなくらいもやもやしているのだ。)
by liyehuku
| 2009-02-23 03:40
| Diary
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Comments(5)
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okoko
at 2009-02-25 06:08
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宗教と人の関わりについて興味はあるのですが、イギリスに住んでいるせいかあまり信仰について肌で感じたことはないんです。
無宗教の人が信仰を持つ人を排除することもあるし、逆に無宗教の人が「神の存在を信じない」という理由で、信仰を持つ人に排除されることもあるわけですよね。それでも互いに理解し合うためには、無宗教という考え方がマイノリティである以上、自分たちの考え方自体も結局は信仰のようなものだとみなして歩みよる方が吉、ということでしょうか。 わたしも日々もやもやしています。
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liyehuku at 2009-02-26 06:57
イギリスに行ったことはないんですが、他の人の話を聞いたりテレビ番組や映画を見たりすると「イギリスとアメリカって完全に『外国』なんだな(=自分が思っているよりもっともっと違うのかもしれないな)」と感じます。
宗教に対する態度はその違いの一つでしょうね。(他の西欧諸国、例えばフランスなんかもそういう傾向がありそうです。)(その点で日本と西欧諸国の間にはだぶるところが大きいような気がします。)(北欧はどうなのかな?) 人間の根っこに近いところ、みんなに共通してあるけれどごくごく個人的なところ、その部分を表現するのに、特定の宗教を信じている人(信じていなくてもそのバックグラウンドに特定の宗教の影響が強い人)とそうでない人の使っている表現のツール(=伝達のツール)がかけ離れていて、お互いにコミュニケーションがとりにくい、と言ったらいいんでしょうか。 <続く>
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liyehuku at 2009-02-26 07:00
<続き>
誰かに何かを伝える時には一番便利なのは言葉です。そして何かを伝えるのに相手に伝わらない言葉を使ってもしょうがない。そこで言葉でいろいろな表現を模索するのですが、そうやってその場その場で相手に伝わるような表現をしていると、何だかどちらの側にいても自分が嘘をついているような気がすることが時々あります。(この嘘は相手に対する嘘というよりは自分に対する嘘という感じが強いです。) あと、そういう部分を話題にして言葉で表現すること自体が相手に踏み込みすぎという場合もあって難しいですね。 私も「個人的なことだから人とは話さない」とか「そんなの言葉にする方がおかしい」という態度を貫けばいいんでしょうが、私がもともとそういったこと(信仰を持つとはどういうことなのか、持たないとはどういうことなのか)に非常に興味を持っていること、また、子どもが生まれて自分のそういう部分を「(言葉でも何でも何らかの形で)伝える」必要が出てきたことから、自分の中でややこしい事態になっているというのが現状です。 <終わり>
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okoko
at 2009-02-27 07:45
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ご丁寧に説明していただいて、ありがとうございました。
確かにイギリスの人たちは全体的にnot so religiousかもしれません。実際めったに信仰について話題に出ませんし、教会に定期的に通っている人も少ないようですし、例え科学者が自分はatheistだと表明しても特に批判はされないようです。その点ではアメリカとの違いを強烈に感じますし、個人的には生きやすいと感じるところです(ただし、日本のnon religiousと同じ質のものかというと、また違うとは思いますが)
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okoko
at 2009-02-27 07:46
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私もイギリスに来たばかりの頃、信仰を持つというのはどのようなことか知りたくて、教会での集まりに参加したことがあります。しかし、外側の人間という立場を変えるつもりはないのに興味本位で参加するというのは、彼らにとって失礼になると思い辞めたことがあります。なのでliyehukuさんのおっしゃることは少し分かる様な気がします。とくにお子さんがいることで、自分の中の曖昧なものを明確にする必要性が生じる、というのには納得です。私はまだその必要はないのですが。
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