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2009年 04月 14日
娘(3歳半)はどうやら「死ぬ」というのがどういうことなのか彼女なりの定義を持っているようだ。
「テントウムシを窓をこうやってバン!って閉めて殺すの」 「クモ、踏んづけて殺していい?」 最近しきりに「(虫を)殺す」ということについて言う。春になってちょくちょくゴキブリを見かけるようになり、そのゴキブリを私がいちいち何かでつまんでつぶして殺してることだとか、家の中に住んでいたコオロギを私がこの前うっかり踏んづけて殺してしまったことだとか、そういうことがきっかけになっているのかもしれない。ひょっとしたら小さな弟に対する嫉妬みたいなものもどこかでうっすら関係しているのかもしれない。 「どうして?」と尋ねると、 「窓でバンって閉めて殺すの」と言う。これは先日の記事に書いたような「理由(why)を尋ねているのに方法(how)を答える」のと違って、「窓でバンって閉めて殺したいの」「殺したいから殺すの」ということだろうと思う。 クモについては、ここら辺にはかなり危険な毒グモ(ブラックウィドウとかブラウンレクルスとか)がいるので、 「それは○○(=娘のこと)に任せるよ。クモは毒があるっていうからね。でも大して害がないの(*1)だったらいてくれた方がいいんだよ。ゴキブリやハエやなんかを食べてくれるからね。さっき観たのは咬まれると危ないやつかもしれないけど、まだ赤ちゃんだから口が小さすぎて咬めないよ」 と言う。 テントウムシについては、 「ゴキブリやハエは汚いものを食べたりするでしょ?その体で食べ物にきて、私たちがそれを食べるとおなかをこわすかもしれないからお母さんは殺すんだけど、テントウムシはそうじゃないでしょ?悪い虫を食べてくれるテントウムシかもしれないし。テントウムシはいてくれた方がいいんだけどなあ」 と言っている。 娘は虫が怖いので実際に殺すことはない(多分想像の中で殺している)。しかし何にせよ、「殺したい」ということは「死ぬ」ということがどういうことなのかという認識が彼女なりにあった上のことだと思う。 娘は地元のクリスチャンスクール(のプレスクール部)に通っている。 1週間ほど前、先週の日曜日だったか、娘と一緒にテレビを観ていた。ナショナルジオグラフィックチャンネルの考古学の番組を見ていると、娘が、 「これってジーザスが死んだ後のこと?」 「ジーザスって死んだの?」 「ジーザスって生きてるの?」 と尋ねた。番組は、新約聖書のいくつかの出来事が現地の出土品によって実際にあったことだと証明できるという主旨の内容だった。 「ジーザスは死んだよ。死んだけどまた生き返ったって言われてるよね。生き返って今も生きてるけどお母さんや○○ちゃん(=娘のこと)が生きているのとはまた違った風に生きているんだよね。お母さんや○○ちゃんはいつか死んでしまうでしょ?」 「お母さんや○○ちゃんは死なないよー」 「すぐには死なない。コオロギや何かはすぐに死んじゃうけど、人間はそんなにすぐには死なない。でも人間も何年も何年も長い間生きてものすごく歳を取ったら死ぬよね」 「えー」 「お母さんや○○ちゃんはそういう風に生きているけどジーザスが今生きてるのはそういう風には生きてないんだよね。ジーザスは死なない。そういうことになってる」 慎重に言葉を選びながら何とか答えたものの、きちんと答えられたかどうか自信はない。それがキリスト教的に正しい答えだったかどうかに自信がないというよりは、果たしてその答えが、娘が彼女なりに培ってきたものをできるだけ傷つけず、それでいて自分に対してできうる限り嘘がないものだったのかどうか、2人の間で保っていけるぎりぎりの答えだったのかどうか、そのことを今でも考え続けている。 後で教師に確認したところ、クラスでこのイースターに向けて子供向けの教材でイエスの生涯をその死と復活を含めて教えていたそうだ。「○○(=娘のこと)もちゃんと理解していましたよ」とのことだった。 うちは夫が「俺はどっちかというと仏教徒」、私が「キリスト教に傾倒している無宗教(ただし育った家庭環境は仏教寄り)」である。もっとも、自分の「そういう部分」について、私自身の中では「キリスト教に傾倒している無宗教(ただし育った家庭環境は仏教寄り)」という表現だけでは捉えきれないところが結構あるので、そう表現することに複雑な思いはある。しかし外(=他の人)から見ればそういう風にしか見えないと思う。 娘を学校に通わせようと思い、どこの学校にするか検討していた時、そういう自分や夫の「信仰」についてもいろいろ考えた上で覚悟して決めた。娘を学校にやること、そして他の学校ではなくその学校にしたのには私たちなりの理由があり、そのためにはしょうがないことだったからだ。 しかし、覚悟を決めたとはいえ、 「ああ、もう既に『その時』(娘が自分自身の信仰を持ちはじめる時)は始まっているのだなあ。私は娘を理解できるだろうか?娘に私が理解できるだろうか?」 という不安のようなものはいまだにある。 それでも彼女が彼女なりの「信仰」(それが特定の宗教であってもそうでなくても)を持つことは悪いことじゃない(むしろいいことだ)と思うのだ。 例えば、アメリカ人プロテスタントにはイエスに対してmy friendという感覚が普通にある人が結構いるような気がする。 例えば教会の礼拝で歌われる讃美歌なんかを聞くとそう感じる。また、バイブルスタディでDVDを観た時にも「現代のアメリカ人男性が信仰に対して熱心になれないのは、彼らが心に持つ(理想の)男性のイメージ、マッチョな感じのいかにも男性らしいそのイメージとジーザスのイメージが全く違っていて合致しないからです」という話が出て、ジーザスと自分をそういう風に重ね合わせようとする感覚は私にはないなあと思ったことがある。(その感覚はmy friendの感覚にとても近いものだと思う。) 残念ながら私にはそういう感覚はない。でも、彼らのそういうところはすごいなあと思うしちょっと羨ましいような気さえする。 もし娘にアメリカのプロテスタントのようなmy friendの感覚があったとしても、多分それは悪いことじゃない。それがいつか彼女を救ってくれるかもしれない。 自分のこと(過去の経験)を娘に投影させすぎているのかもしれないけれど。 親が子どもを守りきれないこともあるだろう。子どもが大きくなればなおのこと。たとえそういうことがなかったとしても親が子どもを守る役目を終える時はいずれ必ずくる。 このイースターを迎えて私が痛感したのは、 「ひょっとしたらもうその時は来ているのかもしれない」 ということだった。 もうその時は始まっているのではないか? もちろん、私たちはこれからも娘を全力で守ろうとするだろう。時には抱え込んで、そして抱え込みすぎてしまって、かえって娘を傷つける羽目になったり「娘が私の手を放さないのか、それとも実は親である私が娘の手を放していないのかよくわからない状態」に陥ったりすることも-これまでのように-あるのかもしれない。 それでも、私は既に私たち(私と夫)が自分たちを超えた何か(それを何と呼ぼうが呼ぶまいが)に娘のことを、そしてひいては自分たちのことも引き渡してしまったような気がしている。 *1: クモといえば獲物の昆虫に毒を注入して中身をスープ状に溶かして食べる生き物で、理論的にいえば全てのクモが毒(venom)を持っている。が、たいていの場合、クモの口は人間を咬むには小さすぎて問題にならない(参照)。その中でブラックウィドウやブラウンレクルスは「大人が咬まれてもかなりひどい状態になり、小さな子どもの場合には危険な状態に陥ることがある」という珍しい種類のクモといえる。咬まれたケースには靴の中に隠れているのに気がつかずにうっかり履いてしまったとかそういった不幸な遭遇がほとんどらしい。
by liyehuku
| 2009-04-14 13:17
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