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2010年 03月 25日
友人の夫の葬儀や教会での告別式(メモリアル・サービス)に出席して、「日本のとだいぶ感じが違うなあ」と思った。
もっとも、米国に来てからそういった式に出るのは今回が初めてである。 日本では何度も通夜や葬式に出たことがあるはずだが、その多くは幼い頃、母方の親戚が何人か病気で亡くなった時のもので、そのどれもが遠い、おぼろげな記憶でしかない。 日本で自分が出席した葬儀については、大学生の頃、父方の祖父が亡くなった時が一番最近のものだ。しかし、父方の祖父の死には人には話せないひどい事情があって、私自身もそこに深く関わっていたためだろうか、ほとんど記憶に残っていない。たまにうっすらとした罪悪感を感じる他に個人的な感慨のようなものはほとんどない。多分、無意識のうちに「忘れたい」と思っているのだと思う。今の自分の状態から推察するに当時も事務的にことをこなしていたのだろう。 だから、私が「日本のとだいぶ違う」と感じたのは、「葬儀が一般的にどうあるべきか」ということに対する考え方が米国(の特にキリスト教社会)と日本では違うなあ、ということだった。 戦争映画で、前線にいる兵士が傍らにいる仲間に、 "See you in another world" と叫んで生きて帰る見込みのない戦闘に出る、というシーンを何度か観たことがある(*1)。 友人の夫の葬儀や告別式に、ちょうどその台詞のような雰囲気があった。「故人の死を悼む」というよりは「新しい世界へ旅立つ死者を見送る」という感じが強かった。 まず、牧師の話の基本ラインはそこにぴたりと沿ってぶれることがなかった。 そして讃美歌についてもそういう印象を持った。讃美歌は教会で人が集まる時には欠かせないものである。それは葬儀や告別式の時も例外ではない。友人の夫の告別式では手を振り上げ、体を揺らしながら熱唱している人の姿がちらほら見られた。その人たちに「死を悼む」という雰囲気は感じられなかったし、中には笑顔の人さえいた。 もちろん、出席者の中には泣いている人もいた。号泣する人こそいなかったが、時おり、涙をぬぐう姿があちこちでちらほら見られ、それは中年の女性だったり、年配の男性だったり、いろいろだった。 もちろん、泣いている、いないに関わらず、その人がその時に何を感じていたのかは、それこそ出席者一人一人みんな違っているのだと思う。 「一般的に葬儀とはこういうもの」の基調の重点が「死者を悼むこと」に置かれている日本の式でもそのことに違いはないだろう。 私にとってショックだったのは、翌日出席した別の教会でのバイブルスタディで、講師に友人の夫が亡くなったことを告げると、真っ先に、 "Is he a believer?" と尋ねられたことだった。 「そう聞いている」と答えると、講師は、 「それはよかった。彼は安らかに死を迎えられたはずです」 と言った。 バイブルスタディでは、講義の終わりに毎回prayerの時間が数分割かれる。受講者の中で、本人、あるいは家族や友人知人に何か大きな問題(例えば重い病気や怪我)や新しいチャレンジ(例えば養子を迎えるとか、養子に実の親を会わせるとか)を抱えている人がいれば、おのおの講師に事情を伝え、prayerの時間に皆で祈ることになっている。 その日のprayerで講師は、私の友人のことについて述べたが、その中では「残された家族が経済的な問題を克服できるよう、2人の幼い子供たちが苦難を経ても正しい道を歩めるようにお導き下さい」ということに触れただけで、故人の死を悼むという感じは全くなかった。彼がbeliverであるという前提の上では死は不幸ではないということらしかった。 私自身はかなり動揺しており、講師に話した時にもそのことについて少し触れたのだが、「それは当然よ。あなたは友人のことを姉妹のように感じているのでしょうから」という反応が返ってきただけで、そこから相手の共感を感じることはほとんどできなかった。私は何となく軽く流されたような気がしたのだった。 他所でこの反応について話した時、 「こういうといけないのかもしれないけど、"Is he a believer?"というところに欧米人的な、なんというのか、現実の隣人愛のようなものを感じました。信仰がというより、現実の人の安堵を重視しているというか」 という返答をいただいた。 きっとそうなのだろう。 バイブルスタディで話をした時、多分、私は自分の動揺に同情してほしかったのだと思う。そして今の私にとって、「故人の死を悼む」ということは、「ある人の死に接して感じた動揺を共有する」ということなのだろう。 米国に住み、バイブルスタディや何かでキリスト教的な考え方に接しているうちに、キリスト教的な死生観を垣間見る機会はあった。 だから、いわゆる「米国における、一般的なキリスト教的死生観」と自分(日本人であり、無宗教ではあるが、キリスト教にひかれる傾向を持っている)の間に大きな違いがあるのは、知識として知ってはいた。そして、自分が日本人であることから、それは「日本で一般的な死生観(あるいはその欠如)」と「米国における、一般的なキリスト教的死生観」の隔たりなのだと感じていた。 今回のような場合、それを半ば体験したようなものだということもできるだろう。そこではその隔たりは埋められない、大きな闇のように見えた。友人の夫の葬儀の後で、私が陥っていたのはその闇の中だった。 ただ、それ以前はその隔たりを、日本と米国の文化の違いのようなものとして捉えていたが、その後だんだんと、それはアメリカ人の中にも、おそらくクリスチャンの中にすらその隔たりはあるのだと考えるようになった。それは個人と「(誰にでも、そしていずれは自分にも訪れる)死」の隔たりなのではないかという気がしている。 *1(後日追記): 実は、正確な表現かどうか自信がない。 "See you in the other world" だったような気も、 "See you in the other life" だったような気もする。 いずれにせよ、死後の世界で会いましょう、という意味の表現だったのは確か。 死後の世界といえば、クリスチャンにとってはHeavenということになる。そしておそらく、ユダヤ教徒やイスラム教徒にとってもそういうことになるだろう。はっきりそうと言わないのは、映画的な表現として直接的に宗教を限定するような表現を避けたい、というだけのことかもしれない。 映画の場合、たいていはキャラクター設定や何かで、「ああ、この人たちはクリスチャンなのね」ということがほのめかされていて、観客にはそれが自然にわかるようになっている。
by liyehuku
| 2010-03-25 08:28
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