リンク
カテゴリ
Diary DD&DS USA Japan Bangladesh Outside the Country Language Learning Lessons Crafts, etc. Nature Movie/TV Books CD/Music Art (General) Baby Products etc. Experimental Cooking The Baby Is Coming! The Baby Is Coming2 Other Memories Memo About the Weblog タグ
USA
English
Religion
Cultures
Books
My Family
Japan
JOCV
Movie/TV
ESOL/ESL
Bangladesh
Spanish
Dreams
Europe
Travels
CD/Music
Vietnam
India
Thailand
Australia
最新のトラックバック
以前の記事
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2011年 06月 17日
人はいろんな年齢を持っている。
子どもの誕生日とともに、母である私も一つ歳をとる。 今年、私は自分自身の年齢の他、母親としては6歳と3歳になる。 昨日、「ようやく娘が自分によく似ていることを受け入れられるようになりそうだ」と書いたが、今回、つくづくと親離れ/子離れの過程にはやはり何かきっかけが必要なのだと感じた。 問題を抱えるということは、結果的に「我と彼をはっきり分ける」ことになる。 今回の出来事でいうなら、それより前の状態、「娘が子どもの頃に私のように仲間外れにされるのではないか」という不安の中で、私は娘と自分自身を同一視している。もちろん、そういう状態であっても、「娘は自分とは別の人間なのだ」ということについて理性では理解している。ただ、それは腑に落ちてこないというか、私はどうしても娘が被る痛みを自分のものとして捉えてしまう。 しかし、やがて、この不安が外在化して現実のものとなると、私は「不安である」という状態を脱して、淡々と、そして着々と問題に対処していくしかない。今回のような問題の場合、もちろん私たちは協力してことに当たらなくてはならないが、いくら自分の古傷が抉られるように辛いとはいっても、今、現実に仲間外れにされているのは娘であり、私ではない。それは娘の問題であり、私が抱えているのはあくまで「自分の子どもが仲間外れにされている」という問題である。娘は「自分が仲間外れにされている」という問題に、私は「(自分ではなく)自分の子どもが仲間外れにされている」という問題に、それぞれが自分自身で対処しなくてはならない。協力してことに当たるというのはそういうことだ。 そして、何かを受け入れるためには一度、そうやって我と彼とをはっきりと分けなくてはならない。同一視し、予め一体となっているものを受け入れることはできない。一体化した状態でできるのは、排除することだけである。
by liyehuku
| 2011-06-17 09:53
| Diary
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||