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2012年 01月 20日
母が自己満足のためだけの余計なお節介を仕掛けてくるたびに、「私が一番必要だった時に一番必要な助力をできなかったくせに」という黒々とした憎しみが湧いてくる。
認めたくない感情だが、それを認めないことには先に進めないのだろう。 「私が助力を一番必要としていた」のは原発事故の後だ。私は子どもたちを連れて広島の実家に避難したが、2週間そこそこで母に追い出されるようにしてこっちに戻ってきた。 「たぶん、それは本当の原因ではない。きっかけにすぎない」 「あの時は夫も私たちが広島にとどまることは現実的ではないと判断した」 「とどまらなかったのは結局私の判断だ。夫は最終的な決断を私に任せていたし、もし、私自身が本当に広島にとどまるべきだと思えば、母の状態を我慢すべきだった。あるいは、実家にいる必要はないのだからアパートを借りるなりすればよかったのだ」 頭の中で自分にそう言い聞かせる声がある。でも、その声を自分のものにしようとすればするほど、憎しみが深くなるのも避けがたいことだ。 「好き」も「嫌い」も愛情も憎しみも全て自分の外にはなく自分の中にある、という閉塞感が今の私にはある。それに耐えられずに自分の外に憎しみの対象を求めているのだろうか。 その憎しみを捨てたら私は何者になるのだろう。それは私だろうか。 まあ別に「私」が「私」じゃなくなっても「私」は構わないのだが。 津波の被災者の中に幽霊に悩まされる人が出てきた、というニュースを聞いた。 子どもはよくそういうものを見る。子どもの場合は家の中で見ることが多いのじゃないかと何となく勝手に思っているが、これはうちの子どもたちがそうだからというだけのことかもしれない。 だから「いる/いない」という話は別として、大人がそういうものを見たとしても不思議はないと思う。子どもにそれが見えるということは、人間にはどこかしらそういうものを見る回路があるのだろう。 原発事故の後で子どもたちを連れて広島まで車を運転している間、ラジオで「逃げたくてもガソリンがなくて逃げられないんです」という被災者の悲鳴に近い声を聞きながら、「ああ、私はこの人たちを置いて逃げるんだ」と思った。人の命を踏みつけにした感触みたいなものがあった。 (私は「この人たち」の中に関東圏で暮らす友人知人たちを知らず知らずのうちに含めていたようだ。大学時代からずっと東京やその近辺で暮らしてきたから、私の友人知人のほとんどは関東圏にいる。) その話を夫にしたら、「それは違う。ガソリンはある。流通がうまくいっていないだけだ」と私に諭した。(夫は当時米国出張中で、飛行機が飛ばなかったので帰国の目処が立ってなかった) 確かに私の感じたことは論理的に考えれば阿呆らしいことなのだろう。でも私には確かにその感触があった。 それこそまるで「幽霊を見た人」みたいである。自分には確かに見えるのに他の人には見えない。 自分には「人の命を踏みつけにした感触」があった。人の命を踏みつけにしてまで避難したのは子どもたちを守るためだった。 しかし2週間かそこらで挫折する。自分の母親との折り合いが悪くて追い出されすごすごと帰ってきたのだ。 「そこまでしたのに子どもたちを守れなかった」という絶望感は今でも時々私の中に蘇る。「人の命を踏みつけにしたこと」と「子どもを守ろうとしたこと」と「それに失敗したこと」は私の中では繋がりのある一連のできごとである。 いまだに「広島にとどまらないでこちらで暮らす」という自分の決断に自信が持てない。そして「向こうで踏ん張れなかった自分」を時々嫌悪しながら暮らしている。 しかし、どれほど何に絶望しようとも今の私は自分の人生を諦めるわけにはいかない。 私を絶望させる「幽霊」は他の人には見えない。私にはむしろその方がいいのだ。特に子どもたちには見せたくない。 それは私の中にこの上もなく憂鬱な姿で存在している。でも、別に攻撃を仕掛けてくるわけではない。うっかり近づくと吸い込まれてしまうかもしれないが、基本的にはただそこにいるだけである。 しかもその「幽霊」は私の顔をしている。というより私そのものなのだろう。
by liyehuku
| 2012-01-20 10:22
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