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2006年 06月 22日
先日、日本食材店でカンパチのカマ(ただしエラ下部分のみ)2匹分800gを見かけて買った。真空パックに入って冷凍されていた。
一昨昨日あたりから魚が食べたい気分になり、家の冷凍庫に入れておいたカンパチを冷蔵庫に下ろしておく。一昨日それを煮付けた。800gいっぺんに解凍したのでいっぺんに片付けてしまわなければならず結局全部煮付けに。 ところが、夫は今週月、火、水と家でご飯を食べない日が続き、煮付けは私と娘で食べることに。私は2回に分けて2枚(1匹分)、娘は煮付けにする途中の状態のものを3~4回にわけて1枚(半身分)食べたのだった。 うーん、ちょっと食べ過ぎたような感じがする、と思った時、ふと気が付いた。 カンパチって結構大きな魚だよね。 調べてみると果たしてカンパチは「大型魚」として分類されていた。ということは海の食物連鎖では上位の方にいる魚のはずである。食物連鎖で上位、ということは水銀含有量が多いということでもある。 というわけで慌ててカンパチの水銀含有量を調べてみた。 なぜ私がこれほど水銀に神経質になっているかというと、水銀の過剰摂取が自閉症を引き起こすらしいと言われているからだ。 私は心身症の症状が比較的出やすいようで、以前パニック障害と診断されたこともある。診断された当初しばらくの間、自分の過去のことやら性格やら自分の中にあるものをいちいち取り出しては穴が開くほど見つめなおした。 それはうっかりすると症状を悪化させかねない作業だったが、そのおかげで自分の癖(感情の癖、心の癖、思考の癖、自分の体のバイオリズム。また、それらがお互いにどういう影響をどの程度及ぼすかということ)をかなりの程度まで把握できたのだ。 そうやって把握したものと自閉症の症状や患者に共通する特徴を照らし合わせるとダブる部分が結構あるような気がする。 そしてそれは私が最も自分の子供に引き継いで欲しくないと思っている部分である。 日本でも、厚生労働省が、妊婦を対象とした魚介類の摂取に関する「注意事項」を発表しており、その中で水銀含有量が多い食用魚について妊婦が1週間に食べてもよい量と回数の目安が示されている。 参考にした『愛知県衛生研究所』の「魚介類中の水銀濃度から魚の食べ方を考える」には、 『今回の注意の対象は妊婦に限定されたもので、子供や一般の人に対しては、現段階では通常食べる魚介類による悪影響が懸念される状況ではないことから、「注意事項」の対象とはしないとされています』 とあるが、昨年の或る日テレビで観た"The Montel Williams Show"(参照:『1/10/2006: 小児用予防接種ワクチンに含まれる水銀』)にダイエット目的でツナ缶を大量に食べていた母親が登場した時、妊娠中の摂取だけでなく授乳中の摂取についても問題にしていたから授乳中の母親も気をつける必要があるのではないか? そこでさらに調べ、その結果に以前得た情報を加味して、私と娘が今回調理したカンパチから摂取したと思われる水銀の量を算出してみる。また、いろいろな仮定の上で私と娘が摂取しても問題ないであろう水銀の量も自己流で算出してみることにする。 【その1】『ヒューマンライフ医科学研究所:最近の毒消し必要要因』によれば、 『体重50キロの人が1週間に取り込んでも構わない水銀の「暫定的耐容週間摂取量」は0.17mg』 この「水銀」はメチル水銀であると推測される。 【その2】ただし、『環境汚染問題 私たちと子どもたちの未来のために:水銀 神経毒物』によると、 「WHOとFAOは、2003年6月に、メチル水銀の一週間の摂取基準を、体重1kg当たり1.6 µgに改正した。これは、発達中の胎児を守るためで、以前の基準、3.3 µg/kg/週の約半分である」 この基準に従うと体重50kgの人が1週間に取り込んでも構わない水銀の「暫定的耐容週間摂取量」は0.008mgとなる。 【その3】一方、日本の厚生労働省が発表している、妊婦が摂取しても問題ないとしている「マグロ」の量は80g/week(参考:『愛知県衛生研究所』の「魚介類中の水銀濃度から魚の食べ方を考える」)。 この「マグロ」を仮にインドマグロとする。インドマグロに含まれる水銀量は1.265mg/kg(参考:『ヒューマンライフ医科学研究所:最近の毒消し必要要因』)なので、日本の厚生労働省が想定している、妊婦が1週間に取り込んでも構わない水銀の「暫定的耐容週間摂取量」はだいたい0.10120mg/weekと思われる。 【その4】WHOやFAOの基準の決め方から、メチル水銀の摂取量は摂取する人の体重に比例するらしいことがわかる。これを仮に1の『体重50キロの人が1週間に取り込んでも構わない水銀の「暫定的耐容週間摂取量」は0.17mg』という基準にも適用できると考えると、(メチル)水銀の一週間の摂取基準は体重1kg当たり0.0034mg。 【その5】胎児は大人より5~10倍メチル水銀に敏感(参考:『環境汚染問題 私たちと子どもたちの未来のために:水銀 神経毒物』)。新生児も大人より敏感。ここでは仮に胎児の水銀に対する敏感さを新生児のそれと同じと見なし、また「新生児の敏感さ」≒「乳幼児の敏感さ」と考えた上で、「新生児の敏感さ」=「乳幼児の敏感さ」と見なす。(ちなみに新生児とは厳密には1ヶ月以下の、広義には3ヶ月以下の赤ん坊のこと。) また、妊婦のメチル水銀摂取が胎児に与える影響と授乳中の母親のそれが乳幼児に与える影響を同じと仮定する。 『環境汚染問題 私たちと子どもたちの未来のために:水銀 神経毒物』によると、米国食品医薬品局(FDA)や米国環境保護庁、英国の食品基準庁は水銀を多く含む魚の摂取に関する勧告の中で、授乳中の母親や子供(特に幼児)を妊婦と同様の「敏感な集団」に含めている。 【その6】4と5より、胎児が1週間に取り込んでも構わない水銀の「暫定的耐容週間摂取量」は0.00034~0.00068mgと推定される。 【その7】娘の現在の体重は8.9kg。5と6より、娘の「暫定的耐容週間摂取量」は0.003026~0.006052mg/weekとなる。 ここで5の仮定をいったん外し、乳幼児と大人の水銀に対する敏感さの差は専ら体重の差にあると新たに仮定すると、娘の「暫定的耐容週間摂取量」は0.03026mg/weekとなる。 (5の仮定を外した上で)さらにまた別の仮定に基づいて考えてみる。乳児を幼児に含めるとする。その上で幼児を妊婦や授乳中の母親と同様の「敏感な集団」に含まれると考え、妊婦と同様の基準を適用する。2003年6月にWHOとFAOが基準を改定した理由が「発達中の胎児を守るため」とされているのに注目し(つまり改定された基準は妊婦を主眼においている)、その基準に基づいて計算すると、娘の「暫定的耐容週間摂取量」は0.001424mg/weekとなる。 【その8】カンパチに含まれる水銀は0.119mg/kg(参考:『ヒューマンライフ医科学研究所:最近の毒消し必要要因』)。 今回煮付けにしたカンパチは0.8kgなので含まれる水銀量は0.0952mgということになる。 【その9】私はその2分の1量を、娘は4分の1量を摂取。つまり摂取した分に含まれる水銀量は私が0.0476mg、娘が0.0238mg。ちなみに私の体重は50kg。 【その10】私は先週末、寿司を1人前食べた。マグロは確か1貫+鉄火巻き3つ。他に何を食べたかあまり覚えていないが、大型の魚の割合は少なかったと思う。 【その11】『環境汚染問題 私たちと子どもたちの未来のために:水銀 神経毒物』によると、 「メチル水銀は体内で比較的安定で、人間で半減期は44~80日と推定されている」 「排泄は大便や尿・母乳を通じて起こることが知られている」 とのこと。ただし別の箇所に、胎児には排泄機構がなく、新生児も排泄が低いと書かれている。新生児より大きい乳幼児の排泄については特に記述がない。 【結論】煮付けの残りはなんとか木曜日までもたせて夫に食べてもらう。もうすぐ日本に一時帰国するがその最中、私も娘もなるべく魚(特に水銀含有量の多い魚)を食べないようにする。
by liyehuku
| 2006-06-22 04:17
| Diary
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Comments(13)
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at 2006-06-22 14:38
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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liyehuku at 2006-06-22 22:59
カギコメさん
他のところで書いたコメントを読まれるのは恥ずかしいねえ。 あのコメントはもっと推敲して投稿すべきだった。大学で勉強してないのばればれな感じで恥ずかしい。(言いたいことは外してないからいいんだけど。) あの事件、今後もしかすると死刑判決が出されるかもしれません。(報道によるとその可能性が高いと言われていますが。) が、死刑判決が出されても遺族の報復が成就したという面が強調されてはいけないと思うよ。 今回最高裁が(自分で判断を下さずに)高裁に差し戻したのは、そういう意味もあるんじゃないだろうか? 事件が及ぼした社会的影響の大きさを考え、これまで出された判決(理由)では司法が社会的に信頼性を失ってしまうと判断したのだろうと思う。 ここで仮に最高裁が死刑判決を下すと、現在の社会的な状況から考えてそういう基本姿勢が注目されなくなってしまうと思ったのではなかろうか?(もちろん自分が死刑を下したくないという逃げの気持ちもないとは言えないけど。)
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liyehuku at 2006-06-22 22:59
(続きです)
しかし、それでも今後、死刑判決が出れば結果的にそれが「報復」になってしまうのは、それもやむなしだと思う。でもやっぱり基本的に量刑、特に死刑は報復であってはならないと今でも思う。 私が数年後に日本でも始まる陪審員制に不安があるのは、(今の制度なら「報復」はあくまで結果としてだけど)陪審員制では「報復」という目的が直接結果に結びつきやすくなるのではないか、と思っているからというのも一つの理由。 でもこの件で一番問題にすべきなのは、 『「無期懲役でも7年で出られる。これはおかしい。だったら死刑だ」と言うことの方が、むしろおかしい』("Letter from Yochomachi"より) http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1570102516/E20060620213243/index.html ということではなかろうか。 心の底から、「日本の量刑は何で加算制じゃないのだろう?どうして日本には実質的な終身刑がないのだろう?」と思うよ。
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at 2006-06-22 23:25
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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at 2006-06-22 23:26
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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at 2006-06-22 23:26
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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liyehuku at 2006-06-23 07:19
別のカギコメさん
貴重なお話をありがとうございます。 事件の話とはずれますが、「虐待」のお話に関連して。 以前からずっと日本には排除された人を受け止めるポケットがないのではないか思ってきました。 単純に比較はできないとはわかっていますが、米国にはそれがあるように見える。 バングラデシュにもそれがあるように見えた。 その違いは社会(とそれを構成する人)と宗教の関わり方の度合いの違いにあるのではないか、つまり宗教、またはそれに基づく考え方が社会にポケット機能を安定して供給しているのではないか、もしそうだとしたら宗教なしでその機能を確立することはできるか・・・・・・ということは私が宗教にこだわっている大きな理由の一つです。「宗教」とは言っても私個人の主な関心はキリスト教の、中でもカトリシズムにあるのですが。
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liyehuku at 2006-06-23 07:21
(続きです)
G・K・チェスタトン著「ブラウン神父の秘密」に収録された「マーン城の喪主」の最後に(日頃は控えめで目立たない)ブラウン神父の独断場のシーンがあって、その内容は要約すると、 「人間の慈悲には限界がある。そこに人間の慈悲とキリスト教の慈悲の違いがある。そして(カトリックの権威主義や不透明さの象徴としてしばしば非難される)司祭は(人の子=イエス・キリスト=神が全てを赦すように)人間の慈悲に取りこぼされた人をも赦さなければならないし、それが司祭の重要な役目だ」 ということになります。
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liyehuku at 2006-06-23 09:45
(続きです)
そしてブラウン神父は言います。 「卑劣な、唾棄すべき、本当の罪を犯した人たちをわれわれに残してください。鶏が時をつくったとき、聖ペトロもそのような卑劣な罪を犯していました。しかしそれでも夜明けは来たのです」 もちろん、作り話なので現実世界ではなかなかこんな風にはいかないでしょう。でも、ブラウン神父には実在のモデルがいる(その神父が著者のチェスタトンがカトリックになったきっかけになったそうです)という事実は、現実世界でもそういう赦しが全く存在しないわけではないのではないかという期待を持たせてくれます。私には今のところそういう人と巡り合ってはいません。それが不幸なことなのか幸福なことなのかはわかりませんが。 でもね、最近はこうも思うんですよ。 日本にも、ポケット機能とまでは言えなくてもネットワークみたいなものはないわけじゃない。 でも助けが必要な人にそれが見えなかったり、または見えても自分にはその助けは得られないとその人に思わせたりするのはいったい何なんだろうか、と思います。
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liyehuku at 2006-06-23 09:46
(追伸)
今回お会いするのは難しいですね。 またのお楽しみということにしましょう。 ・・・・・・で、ででででも、私には才気とか頭脳の明晰さはないと思いますよ。(初対面だとよくしゃべるので、「デキる人?」と思う人もいるかもしれませんが。でも逆に頭が悪そうに見える可能性もあり。) その他(容貌など)どんな点でも目立つところのない人間というのが私の自己評価です。会うとがっかりするかも。 ・・・・・・まあ、それも面白いかもしれません。 またの機会を待ちましょう。
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at 2006-06-23 12:45
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
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liyehuku at 2006-06-24 00:48
「カギコメ」さん
いろいろありがとう。 そういうことではないから大丈夫よ。 上に出した「ブラウン神父の秘密」からの引用が紛らわしいかもしれないけど、私も-少なくとも社会的側面の「私」は-死刑廃止論者ではないです。 社会的側面としての「私」と限定したのは、そういう事件の報道に接するたびにどうしても自分の中に「私が彼(犯人または被害者)でなかったのはなぜだろう?」という疑問がわくからです。犯人について考える時、その疑問は時に「私が彼と同じ境遇だったらどういう人間になっていただろう?」とか「そもそも私が彼のような境遇に置かれなかったのは何故だろう」という形をとります。そして同時に犯人の心の動きに通じるものが自分にもまったくないとはいえないのだということに恐れを感じる気持ちがおきます。
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liyehuku at 2006-06-24 00:48
(続きです)
そういうごく個人としての「私」の恐怖を踏まえた上で、社会的側面の「私」は死刑は必要だと思います。(ルール違反をしたらそれ相応の罰を受けるべきで、死刑に値するルール違反というのは現に存在していると思う、という点で貴方と同意見です。) また今回の事件で特に思ったのは、現状、社会的な司法の信頼性を維持するために死刑判決を使う必要も(残念ながら)時としてあるということです。 迷いみたいなものがないわけではないけど。(例えばもし仮に実質的な終身刑があるとしたら、死刑には意味はあるのか?あるとしたらどういう風に運用されるべきなのか?ということについて現段階ではっきりした考えがあるわけではありません。) しかし、いずれにせよ、凶悪事件の判決に7年か、死刑かという二つの選択肢しかないのはやっぱりどうにもこうにも変だなあと思ったのでした。 まあ、終身刑がないのはコストの問題ではあるんだろうと前々から思ってはいるんだけど。
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