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2006年 08月 29日
私は大学に入って田舎から上京するまで自分で服を買ったことがなかった。
実家が交通の便の悪いところにあり車で移動する方が楽だったからだ。自分で(まがりなりにでも)買い物らしい買い物ができる場所まで行くには、まず最寄の駅まで自転車で20分、そこから電車でさらに20分かける必要があった。しかも行きは下り坂なので「自転車で20分」で済むが、帰りは半分くらいの道のりを自転車を押して上がる必要があり最低40分近くかかるのだった。めんどくさい。 こんな状況なら母が何かの買い物に出るついでに一緒に行ったり買ってきてもらったりした方が楽ちんでいい。 (幸か不幸か)通っている中学・高校が女子高だったせいか大して身なりにも気を使っていなかった。どこかに遊びに行くのもせいぜいがとこ友達の家か本屋くらいなのでそれでよかったのだ。 大学に入って実家を離れると必然的に自分の服は自分で買わねばならない。 そうなるとだんだん私も自分が着るものに気を使うようになってきた。もちろん化粧もする。 大学デビューというほど大げさなものではないがそれなりに変化はあった。 私は昔、内面にも大きなコンプレックスを抱えていた。大学入学後、「自分を変えたい」という思いが強くなった。 「自分を変えたい」と思った要因はもちろん実家を離れたからではない。中学・高校から一転して男子校のような大学に入ったからである。 ちなみに大学を卒業して就職した会社も男性の方が圧倒的に多かった。 次第に私は、自分の外見・内面両方のコンプレックスを一石二鳥に克服すべく「或るイメージに沿った自分」を演出するようになった。 私の周囲にはもてる女の子が多かったのでお手本は身近にいくらでもあった。当時私は友人の言動をこっそり真似ていたのである。 いろいろ工夫してみてそれなりに成功しているように感じることもあったが、結局、いつも長続きしなかった。「誰それの真似をしている」と傍にバレるのはとても恥ずかしいことだったから、そうならないように、つまりうまく自分に沿ったかたちで真似たつもりだったのだが、それでも演出したい自分に自分本来の内面がついていかなかったのだ。 就職してからのことだが、「うまくいってるな」という時期に或る人(男性)から、 「○○さん(私のこと)って自分のこと美人だと思っているでしょ」 と言われたことがある。 ものすごくショックだった。ショックだったしものすごく気分が萎えた。言った人はそのつもりで言ったのだろうが。 何がそんなにショックだったのか? 「自分が実は美人でない」というショックでなかったことは確かだ。自分が美人でもかわいくもないことは自分が一番よく知っていたことだから。 それでも「あいつは美人でもないのに美人だと思っている」、つまり自分が勘違い女だと思われることはとても恥ずかしいことだ。 それに自分の努力が認められてないという脱力感も多少あったのだろう。かといって「がんばってるねー」と思われるのも本意ではなかったはずだけど。 今の私には外見的にも内面的にも「自分とは違う誰か」になっている余裕は、時間的にも精神的にも全くない。これは娘が生まれる前から既にそうだったから、その余裕のなさは「そうしたいのにそうする時間もエネルギーもない」というよりは「そうする気があまりないから気がつくと自分の時間もエネルギーも他のことに使ってしまってそこに振り分ける分がなくなっている」ということなのだろう。 そうなったのは20代後半あたりからだろうか。 昔を振り返ってみても「あー、あの頃はしんどかったなー」という感慨しか湧かない。 当時は人を好きになるのも、「私も恋というものをしなければ」という感じだったから、「こんな人が好きになれればいいなあ」という人を好きになっていたことが多いように思う。そうでなければ寂しいからで、そういう自分を救ってくれそうな人≒自分に優しくしてくれた人を好きになっていた。 当然、どちらのタイプの人ともうまくいったことはないが今はそれでよかったと思う。そうでなければ今の自分はなかっただろうから。 過去の痛々しい(というか「イタい」)自分がいてこそ今の自分があるのだ、という意味で自分の過去を大事に思う気持ちはあるが、それでも今の方が楽ちんでいいというのは事実。 そしてその「別の人間にならなくていい楽ちんさ」にかまけて身なりに構わなくなってきたのも事実。 時々、「これじゃいけない」と慌てて自分の着るものや化粧の仕方を改善しようと試みるも、既に何をどうしていいのかよくわからなくなっているのだった。昔の様には戻れない。時代が違う。年齢が違う。 年齢を重ねることについて具体的なイメージはないわりに、年齢相応に歳を取っていきたいという思いはあるから、若作りはしたくないし、だいいちそれにはまだ早過ぎる。 30代くらいの女性向けの雑誌(例えば"LEE"とか)に載っているような服装やメイクは私の目には、若作りとまでは言わないけれど、それでもいやに若い子向けのように見えて、自分に取り入れられそうにない。 たかが身なりのことだが、自分が、歳を重ねていく上で何か大きなもの(或る状態)から別の大きなものに移る過渡期にいるような気がする。 協力隊員時代(既に20代は終わりつつあった)、娯楽の少ないバングラデシュで生地屋で布を買ってちょっと凝ったデザインのサロワカミューズ(現地の、主に若い未婚の女性が着る3ピースの服)を作ってもらうのは楽しかった。布を選んでいる時間が一番わくわくした。 どうやら私は布そのもの好きらしく、それはバングラデシュから帰ってきてからも変わらない。 身なりにかまわなくなってからも、その延長線上で被服に関することに興味がある。 自分に何が似合うのか、そもそもが自分が何を着たいのか、皆目見当がつかない今だけど、それ(被服に関することへの興味を失っていないこと)が私にとって幸運なことなのだ、ということだけはわかる。
by liyehuku
| 2006-08-29 23:59
| Other Memories
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Comments(2)
人のを真似てみるってのは悪くない方法だと思いますよ。むろん著作権とかがあるものはNGですが、スタイルなんかはどんどんインスパイアされちゃうとイイです。いろいろやっているうちに次第に自分流が確立されるはずですから。
ちなみに私は・・・です。
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Commented
by
liyehuku at 2006-09-04 05:44
「・・・」の中身が非常に気になるところですが。
>人のを真似てみるってのは悪くない方法だと思いますよ そうですね。結局、「楽ちんでいられる今の自分」、その人格の少なからぬ部分は当時の人真似によって培われたものですし。 身近にお手本があったことはとてもありがたいことだったと思います。また、それでいて独自の路線を開発できたことに関しては「私って偉いなあ」とも思います。
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