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2006年 09月 09日
「他人のことなんてわかるわけがない。自分のことだってわからないのだから」
「他人より何より自分のことが一番わからない」 というのは、いかにもドラマなんかに登場しそうな台詞だが、意外に現実の日常生活にも顔を出す。常套句とまではいかないが、或る程度慣用句的に使われていると言っても過言ではなさそうだ。 この考え方の根底にあるのは他人の不可思議さと自分の不可思議さを同じ土俵で比べるという視点だ。 前々からそこにちょっと違和感を感じているのだがうまく表現できない。 しかし、少なくとも、他人の不可思議さと自分自身の不可思議さは全く種類の異なるもので、比較しようにも比較できないものだということは言える。 問題はその2つがどのように異なるか、ということなのだが、うまく説明できないなりに説明を試みてみると、 「他人の不可思議さは『その人が何を考えているかさっぱりわからない』ということにある。 自分自身の不可思議さは『自分が何を考えているかはわかるのだけれど自分がどんな人間なのかさっぱりわからない』ということにある」 「他人がどんな人間であるか」ということは「自分がどんな人間であるか」ということよりもずっと把握しやすい。 その「他人」も「自分がどんな人間なのかわからない」と思っているのかもしれないが、「自分」は基本的に「他人」である「その人」が自分にとってどんな人であるかということだけを見ている。 「自分」と「その人」以外の人が「その人」をどんな人間だと思っているかということは、「自分」の見方に少なからぬ影響を及ぼすのは確かだが、それ以上の関係はない。 「『自分』と『その人』以外の人」が「その人」のことをいくら○○な人(例:優しい人)だと思っていても、「自分」にとって○○な人でなければ「その人」は○○な人ではない。(それは例えば、自分の家庭の外で未成年に対して性的虐待を繰り返していた男性がいくら家族思いのいい父親であったとしても、その人が「いい人」であるとはとうてい言えないのと同じことだ。) そして、仮に「その人」が全く本来の「その人」とは異なる自分を「自分」の前で演出していたとすれば、「自分」はそれを見て「その人」のことを「この人はそういう人なのだ」と判断するだけだということでもある。 こういったことから、「『その人がどういう人間なのか』ということと『その人が何を考えているか』ということの間に関係はない」と言ってしまうのは飛躍のしすぎだろうか? でも実際、全然関連性がないとは言えないが、自分が思っているよりもずっと少ないのではないか。 自分が見積もっている両者の間の関連の度合いは、相手に対する期待の度合いでもある。 友人に対しても知らず知らずのうちに「その人はどういう人か」という判断をした上で付き合っている。 そうやって付き合っているうちに、これまた知らず知らずのうちに「彼/彼女はこういう人だからこういうことを考えているに違いない。(そしてそういう風に考えるということはこういう行動をとるに違いない)」という目で相手を見るようになる。 本来はほとんど関係がないはずの「その人がどういう人であるか」ということと「その人が何を考えているか」ということをだんだんと結びつけて考えるようになる。もっとも友人関係なら、2人の間に蓄積した経験から「その人が何を考えているか」ということを類推すれば、それが当たることは多いだろう。 でもやっぱり「その人がどういう人であるか」ということは、2人の間に蓄積した経験とも「その人が何を考えているか」ということとも関係はないのだ。 そう痛感することが最近あった。 「ネット上の人間関係」と「リアルの人間関係」は対比されることが多い。 私は、付き合い方、つまり相手とどう付き合うかという方法論においては、ネット上のそれもリアルのそれも全く変わらないと思う。 しかし、「リアルの人間関係」と「ネット上の人間関係」には決定的な違いがある。 それは、前者が「相手がどんな人間なのかはわかるが相手が何を考えているのかはわからない」関係であるのに対し、後者は「相手の考えていることは結構わかるのに相手がどんな人間なのかさっぱりわからない」関係である、ということだ。 つまりネットとリアルは逆転している。
by liyehuku
| 2006-09-09 09:53
| Diary
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Comments(4)
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野猫
at 2006-09-09 14:29
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実は、思っていること以上に、作法で伝わることが多い。日本文化なら、茶道とかだし、アメリカだったらkissであったり。脳の中だけでは、関連がつかない。だからこそ、動作に関連させると伝わったりする。ネットって、動作がないのだよね。文章に動作をいれることはできるのだけど、訓練が必要だし。ま、俳句なんて、言葉の作法でしかすぎない。面白いよ、俳句は外人に通じる。映画の作法と同じだから。
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liyehuku at 2006-09-10 04:48
そう、野猫さんの話を聞いて(読んで)「俳句を詠む習慣をつけてみようかな」とこれまでも何度か思ったのですが、日本語の俳句は敷居が高い気がしてためらっています。
いくら「気楽でいいんだよ」と言われても、何となく「うるさ方」の人たちがどこかにいるような気がするし、自分で「自由に詠めばいいんだし」と思ってみても、その「自由」をどこかで他の誰かに測られるような気がして。 だから「英語ではじめてみようか」とも思います。これも前々から考えていることなのですが・・・・・・。 秘密の日記帳でも作ってそこに書きとめておけばいいことなんですけれどね。
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野猫
at 2006-09-10 06:16
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うん、どうせなら、スペイン語がいいかも。ようするに得意でない言語。結局、説明しずらい状況の方がいいの。日本映画のつまらないことが多いのは、説明調なんだよね。なぜ、人は、わざわざ外国旅行へ行くかというと、俳句しにいっているのかもよ。ティー、ミルク、ハウマッチ。カタコトなのに通じる気持ちよさ。あはは。
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liyehuku at 2006-09-10 11:11
私は自分でサイトを始めるまでろくに日記をつけたことがありません。
でも、協力隊の訓練中に書き始めたベンガル語の日記はかなり長く続きました。 あれも野猫さんが言われているのと同じ理屈(→だから気軽に書ける)のような気がします。 ・・・・・・って私日本語も得意でないらしく、日本語の日記(三日坊主で終わったやつ)を今読み返すと、何が書いてあるのか書いた本人である自分にもよくわかりません。辛うじて読める筆跡ではあるんですが何が言いたいのかよくわからないです。 そういう意味(字の汚いのを気にしないで書けること&多少は他人の目を意識して書くので後で読んで意味がわからないという状態になりにくいこと)で、Web上で日記を書くのは私にとって便利なんですよねえ。
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