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2007年 10月 22日
(この記事には補足記事があります)(参照)
例えば「善行を積むことによって救われる」(この「救われる」は主に死後の話。「天国に行ける」とか「極楽浄土に行ける」とか「来世で報われる」とかそういうこと)という考え方がある。 しかし、おそらくキリスト教的には-少なくとも米国のキリスト教的には-そうではなくて、彼らはクリスチャンであることで既に救われている(この場合、Heavenに行けるということ)のである。 彼らの信仰の中で、善行は「(クリスチャンとしての)(神に対する)義務」を意味している。 こうなると「義務を怠った場合はどうなるのか」という疑問がおこってくるが、その怠慢がクリスチャンであることを揺るがすほどのものでなければ問題にはならないし、「怠慢である」というだけでクリスチャンであることを揺るがすようなことはめったにない。 この点で、クリスチャンにとって「善行を行なうこと」はプライドの問題により近い。 つまり、「善行を積むことによって救われる」という立場から見れば、「クリスチャンにとっての善行は自分たちほどには切迫感のないもの(=義務)であり、プライドの問題にすぎない」と言うこともできる。 悪行(ここでは大雑把に「=罪」と捉えておく)については、それはクリスチャンであることを揺るがすに足る、または余りあることである。 しかし、悔い改められたものであるかどうかが「赦し」のキーとなる。悔い改めるのはまず神に対しての告白が必要で、カトリシズムの場合、それはは聖職者を通じての「懺悔」であるが、プロテスタンティズムの場合、普通はそういった決まった形を持たず、その人が心の中で神に祈るだけでも「赦し」は得られる。プロテスタンティズムの場合、会衆の間で行なわれるprayerの際に「告白」することもできるが別にそれは必須ではない。
by liyehuku
| 2007-10-22 08:05
| Outside the Country
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Comments(3)
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kana
at 2007-10-25 21:43
x
悪い事すると地獄に落ちる、というのと似てますよね。
俺は別に天国に行かなくてもいいから、悪い事をするぜ!という人もいますねぇ。 善行は義務、というのはすごいなあ。新しい発見…。 私の中では「よいことをすると気持がよい」くらいなんですけど。
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liyehuku at 2007-10-26 11:27
あ、すみません、記事では片面しか書いてないんですけど、彼らの「義務」も、同時に「歓び」ではあるのだと思います。(だからこそプライドにもなる。)
突きつめて考えるのはいいことじゃないのですが、自分(=仏教の影響が強い無宗教)の中の「よいことをすると気持がよい」をいろいろな面から眺めてよくよく考えてみると、「善行は義務(というかプライド)」の人たちからすれば、「よいことをすると何か報われると思ってるんじゃないの?どこか根っこの部分で」と見えるのかも、と思います。 (彼らの義務よりももっと重い、もしくはもっととらえどころのない、別の何かを背負わされているというか、結局、得体の知れないものを強制されているように見える。彼らにしてみればそこに歓びが感じられるとは思えない) (彼らにしてみれば「神に発しそこに帰する善い行い」こそが、自然発生的な善行) (そうでないものは律法とか律法的なもの-「これこれしなければこういう罰を受けるぞ」-に縛られた窮屈な行為か、自分の名に帰する不遜でどこか歪んだものに見えるのかも) <続く>
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by
liyehuku at 2007-10-26 11:46
<続き>
「クリスチャンでないと救済されない」といえば確かに「悪いことをすると地獄に落ちる」と似ているようにも響きますが、「行い」をどう解釈するか、という点から見ると、全く違ってきますね。(クリスチャンの、特にプロテスタントの信仰における「行い」の捉え方は「悪いことをすると地獄に落ちる」式ではない、ということ。) ワンクッションあるんです。 善行にしろ悪行にしろ、それと神様(=救済するか否か)の間にはイエス・キリスト(=クリスチャンであること)がなくてはならない。 プロテスタンティズム(特に米国で顕著?)の場合、「予め救われることは決まっている」というところから全てが始まっています。 極端にいえば、善行と悪行と救済の間には何の関係もない、ということもありえる。 そしてそれは、イエスの最期の時、同じように十字架に掛けられていた2人の罪人の話によく表れているのだ、と解釈されています。(最後の最後という時に1人はイエスをキリストだと認めてイエスと共にHeavenへ、もう1人は認めずにSheolへ。) <終わり>
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