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2008年 03月 04日
「視察の旅」でバングラデシュを訪れていた父をダッカの空港で見送って帰った直後、自分の配属先で青年海外協力隊員を狙った誘拐未遂事件が起こったという報を聞いた。
幸い、標的になった隊員は当日任地を離れていた。 犯人の4人組は既に逮捕されていた。 犯人は配属先(国立の職業訓練校)の生徒だった。 犯人側の情報が事前に警察に漏れていたため、当日は警察が先回りして見張っていたらしい。 金品(パソコンや現金など)目当ての犯行で武器は鉈や鎌といった刃物で銃器は持っていなかった。 犯人は学校にはめったに姿を見せず地元のヤクザともマフィアとも言われる組織に出入りしていたらしい。一人はどこかの県の警察のトップの息子だと聞いた。確か他のメンバーも軍関係のそれなりに地位のある人の息子だとか、結構裕福な家庭の息子だったはずだ。 当時、その任地に派遣されていたのは私と標的になった隊員のみ。事件後2人ともしばらくダッカ待機になっていたが、そのまま撤退して任地替えすることになった。 現地側では「結局何もなかったんだから撤退は大げさでは」という見方もあったようだがそういうわけにもいかないだろう。 私の任期満了の2ヶ月前の出来事である。(だから私の場合、正確には任地替えではなかった。確か配属先を含め全国各地の国立の職業訓練校を統括していたヘッドオフィスか一時的に身分預かりになったのだと思う。) 事件後、JICAの現地事務所で「何か事件に関して情報があったら教えてほしい」と言われた時、或ることを思い出した。 配属先で私にはA、B、Cという3人の同僚がいた。コンピュータ科のインストラクターたちだった。 事件の1ヶ月前、その時期私は任地を離れて「巡業中」だったが、その日はたまたま任地に帰っていた。職場に顔を出すとAが妙にばたばたしている。 「実はうち(学校の敷地内にある。協力隊員も同じように学校の敷地内に住んでいた)に4人組の強盗が入ってね。その時のことが原因で妻が具合を悪くしてしばらくダッカの実家に帰るんだ」 と言って、Aが慌しく去った後、Cが言った。 「強盗が入った時奥さん1人だったらしいよ」 彼の顔には薄ら笑いのようなものが浮かんでいた。それはまるでAに対して「ざまあみろ」と言っているかのようだった。私は嫌な予感がしたが、ここはバングラデシュで相手は男性となるとそれ以上のことを聞きかねた。 JICA事務所の人にその話をすると彼は顔を曇らせ「それは・・・・・・」と一瞬口ごもった。 「レイプされてるね」 後でわかったことだが同僚の家に押し入った4人組と誘拐未遂事件の4人組は同じ犯人だった。 その約1年半余り前、配属先に赴任した時、私はまず「何も買う気はありませんし誰も日本に送る気はありません」ということをはっきり周囲に告げた。 周囲の「JICAの予算で何か機材を買ってくれるのでは?」とか「JICAのカウンターパート(現地人の同僚)研修制度で自分を日本に送ってくれるのでは?」という期待が大きかったためだが、現地の状況を見てそうしても何の効果もないだろうと既に私は判断していた。 誰よりも3人の同僚にはっきりと告げ、すっかり私はめんどくさいことを片付けたと思っていたのだった。 私は配属先のボス(学校の校長)と折り合いが悪かった。「巡業」に出ようと思ったのはそのせいではなかったが、「巡業」に出たことで結果的に救われたのも事実である。 「巡業」が始まってからも折り合いが悪いことでたびたび活動に支障をきたしていた。それは「巡業」に出たところで変わらなかった。私は校長との交渉をできるだけスムーズに進めるために現地の誰かに知恵を借りる必要があった。 幸いBが快く力になってくれた。 それが後になってまずい事態を引き起こした。 巡業の最中も1ヶ月に1~2度は任地に帰ることにしていた。 その時は任地からダッカに出て用事を済ませてから巡業先に戻る予定だった。 ダッカに行く前日だったか、Bから 「異動になるんだ」 と聞かされた時、私は「うーん、相談相手がいなくなるのは困るけど、異動ならしょうがないか」と思っただけだった。 よくよくその時の会話の様子を思い出してみて、それがどうやら左遷であり左遷になると彼の生活に後々まで深刻な影響を残すらしい、ということに気が付いたのはダッカに着いてからのことだった。 その翌日はヘッドオフィス(或る省庁の一部署。全国各地にある国立の職業訓練校はそこが直轄している)に行く予定があった。その時にかけあってみることもできるかもしれない。 Bに電話をかけてそうして欲しいかどうか尋ねると「できればそうして欲しい」という返事だった。 職業訓練校の中でヘッドオフィスの人と直接話をすることが許されているのは各校の校長のみ。それ以外の人間が自分のボス(校長)を飛び越して話をすることはできない。それを試みてヘッドオフィスに赴いただけでも首が飛びかねない。 その点協力隊員なら大丈夫だった。隊員がしげしげ足を運ぶのに決していい顔はしないが、少なくとも首を飛ばすことはできない。 結局、左遷撤回の話し合いは無益なままに終わった。 「彼はとても優秀な人です。今急に彼を失うことは私の活動上にも大きな支障をきたすことになります。どうにかなりませんか?」 「どうして彼じゃないとだめなんだね。他の2人はそんなに使いものにならんのか?」 「いや、そういうことではなくて・・・・・・」 私には「とにかく困るんです」しか言うことがなかった。 「既にトップ(大臣)から書類の形式で辞令が出ているものを今さら覆せないんだよ。そういうものなんだ」 いくら首の飛ばない隊員でもトップに直にかけあうことはできない。そういうものだ、と聞いていた。 Bの左遷の直接のきっかけは、配属先の校長によるヘッドオフィスへの働きかけだった。校長からヘッドオフィスへの日頃の賄賂が効いたという噂もある。贈収賄が実際に行なわれていたのかどうかということについては私はそれは事実だったにちがいないと思っている。賄賂はごく普通のことで、誰も彼もが誰かに賄賂を送ってるんじゃないかという気さえした。(ただ賄賂が必ず効くとは限らず、結局贈り損というケースも非常に多い。) そして、そこにはもう少し裏があった。 私が何かとBに相談しているのを見たAは「あの協力隊員は日本へは誰も送らないと言っていたけれど本当はBを送るつもりなんじゃないか」と考えたらしい。 「自分こそは日本へ」という思いのあまりBを何とか排除しようと考えて、 「彼女に何かと入れ知恵しているのはBですよ」 と何かにつけて報告していたのだ。 校長はBをどこかに飛ばしてしまえばめんどくさいの(私)が少し大人しくなるだろうと考えたようだ。 何の進展も見せないかと思われた左遷劇が急展開したのは少し後のことだった。 結局、左遷は撤回された。(別の科のインストラクターでBと同時に左遷の辞令が出ていた人がいるが彼の辞令も撤回された。) 聞いた話によると、Cはその大臣と遠い親戚関係にあり、彼が学校内のまだ若くて血気盛んなインストラクター数人を募って個人的に直談判したのが功を奏したとのことだった。 大臣が別の公用で現地を訪れた際、確かモスクでの礼拝時のことだったか、みんなが集まっている場所で校長を叱り飛ばしたとかで、これで日頃の溜飲を下げた人も多かったようだ。校長の側からしてみれば由々しき事態だった。 この左遷劇以降、校長とAはすっかり悪者になってしまった。 もともと校長の人使いの悪さについては皆が認めるところで、陰で彼のことを悪く言う人は多かったようだが、この一件を境に彼の評判は落ちるところまで落ちたかのように見えた(さすがに本人の前や本人の耳に入りそうな状況で悪くは言わないけれど)。 或る人は彼について「あいつはトゥピ(主にムスリム男性の被る帽子を指す)を被り礼拝を欠かさず、いかにも敬虔なムスリムのように振る舞っているけれど、中身はショイタン(悪魔)だ」と言った。 数ヵ月後、校長が公用車(普段は運転手付き)を自分で運転していて事故を起こし車が大破した時も「報いだ」と思った人が多かったようだ。(幸い本人は打ち身程度のケガで済んだが、車は修理不能だったようで、私用で運転していた時のことだったこともあってこの件も校長としては痛い出来事となった。) 以前から国外に移住したがっていたAが、めったにない幸運で米国永住権を獲得できるDV lotteryに当選したのはその頃だったろうか。しかしその後の手続きで申請は却下され、その件も周囲からは「そういう目」で見られていたのではなかったかと思う。(却下の理由は確か「書類上のサインのうちに一致しないものがある」とかそういった類のもので、普通はそれだけで却下されるような事項ではなかったと聞く。本当の理由は「ムスリムだから」というのが大方の見方だった。当時は911米国同時多発テロの直後でそれもありえない話ではなかった。) バングラデシュでは、誰かに何かよくないこと(病気やその人に全く落ち度のない事故を含む)が起こると、それはその人が以前行なった悪いこと(=宗教的な意味での罪)の報いなのだ、と捉える傾向がある。 いや、単にその人本人だけではない、時にはその人の家族-例えば親や配偶者-の行なった悪いことの報いであることもある。 私はバングラデシュとバングラデシュ人に特別な思い入れを持っている。 今でもバングラデシュをまた訪れたいという気持ちは強い。当時お世話になった人は今どうしているのか。会って話がしたい。 それと同時に私は自分がバングラデシュに生まれなくてよかった、と強く思っている。これが米国の場合でも「米国に生まれ育ったら私はおそらく全く別の人間になっていただろう」くらいのことは思う。しかし「米国に生まれなくてよかった」とは-少なくともバングラデシュに関して思うほどには-思わない。 何年かの期限付きでバングラデシュに住むのは一向に構わない。むしろそうしたいという気持ちすらある。これが無期限となるとだめだ。私はあの国では暮らせない。 バングラデシュやバングラデシュ人に対する私の思いは、単に「好き」というよりはもっと複雑な感情、いわば愛憎半ばするような感情だ。 私が憎んでいるのは、校長でもAでもない。それは例えばあの時のCの薄ら笑いなのだと思う。 私は、むしろ自分が親しみを感じていた人たちの中に潜んでいる、越えられない溝のようなものを憎んでいる。
by liyehuku
| 2008-03-04 14:30
| Outside the Country
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