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2008年 05月 24日
娘を妊娠している時、この子がどういう風に育っていってほしいか、ということについて、
「自分で生きていける子に育って欲しい。それ以外は何も望まない」 と考えていた。 要するに「自立した大人になってほしい」ということだが、実際に子どもが生まれて具体的に育児というものが始まってみると話はそう簡単ではないことがわかってきた。 例えば自分で生きていくためには知識は強力な武器となりうる。それにはきちんとした教育を受ける必要があるだろう。そうなると「いい学校に通わせる」というのも一つの手にはちがいない。「武器になる」という点でいえば高い学歴だってあればあるに越したことはないのかもしれない。 とするとお金だって必要だ。 また例えば自分で生きていくためにはソーシャル・スキルが高いことも強力な武器となる。それはつまり、コミュニケーション能力が高い、ということだろうか。保育園とかプレスクールに早くから預けて集団生活に慣れさせておいた方がいいのだろうか。「しつけ」だってちゃんとしておいた方がいいのかもしれない。日本では「お行儀がいいこと」がとても重視されているのだ・・・・・・ 子どもの成長に伴って都度都度「何が一番大事なのか」ということをきちんと確認しないと「自分で生きていける子に育って欲しい」の部分で既に全てのことを望んでいることになる。いくら「それ以外は何も望まない」とうそぶいてみたところでそれ以外に残っているものなんて何もないのだ。 自分に与えられるものは何だろうか?と考えてみる。 現状の我が家の経済状態で「(そこそこに)高い教育」というのはひょっとしたら不可能ではないのかもしれない。 私にはソーシャル・スキルが欠けている(どこかに欠陥があるんじゃないかと時々自分で思うことがある)がプレスクールに通わせることは可能だし、「通わせるならここがいいな」という目星も或る程度つけてある。 こういうのは選択肢があるからこそ(かつ、今のことろどの選択をすることも可能である状態でああるからこそ)の悩みなのだろう。 そういったものが本当に私が子どもに与えるべきものなのか、ということについてはよくわからない。むしろ、あまり重要ではないような気がする。そもそも家の収入は全て夫が稼いでいる以上、それは果たして「私が」与えるものだといえるのだろうか。 私自身が与えられるものは多くない。ない袖は振れない。しかしそれでも何かあるはずだと思う。 ここで、自分が子どもに何を望むかについてもう一度考えてみる。 「自分で生きているような大人になってほしい。できれば所属している集団に縛られることなく、どんなところでも暮らしていける人になってほしい」 と思う。 その上で自分の「ない袖」の中を探してみる。 例えば「人に好き嫌いの感情があるのはしょうがない。それは否定すべき感情ではない」ということはちゃんと伝えたい。「あなたの感情はあなたのものだし、誰かの感情はその誰かのものだ」ということを知ってもらいたい。 でも同時に、誰かを嫌いだという感情はその誰かを傷つけ、その結果その人を悲しませたり怒らせたりするし、自分が他人にとってのその「誰か」であるかもしれないという可能性は普通にあるのだということも知っていてほしい。 だから、自分のものである自然な感情をどう消化して出すか(上手に表現するためにどう昇華させるか、と言い換えてもいい)、ということは自分にとっても他の人にとってもとても大事な問題なのだ、と。 でも必ず自分の根っこのところで、誰か他の人に嫌われているということが自分の価値を損なうことは絶対にないのだということを覚えていてほしい。 私にも嫌いな人・苦手な人がいるし、それと同じように私のことを「苦手だな」「私、あの人のこと好きじゃないわ」と思っている人もいるだろう。 だんだん大人になってきて人間関係において或る程度経験を積んでくると、その辺のバランスはうまく取れるようになってくる。「私はあの人のことが好きだけどあの人は私のことが嫌い」ということはまずない。こっちが苦手だと思っていれば相手もそう、逆も然りで、たいていお互いにうまく距離が取れるように自然になっている。(子どもはそうもいかないのが難しいところではあるが。) 私はなるべく自分に対する陰口を耳に入れないように努めている。日頃、なるべく他の人の陰口になるようなことを言わないようにしている理由は実は主にはそのためだ。つまり、「私は言わないからあなたも言わないでね」ということだ。もちろん、こんな暗黙の境界線は万全な対策とはならないが、それでも或る程度の防御策としては役立つ。その「或る程度」以上の効果を期待しない限りは十分役立つといえるだろう。 それでも「誰それさんがあなたのことをこんな風に言っていたよ」と耳に入ることはあるだろうし、その「誰それさん」が直接言ってくることもあるだろう。 さすがに面と向かって言われることはめったにないことだが、接している相手から自分に対する苦手意識のようなものを感じることはわりとよくあることだ。 もちろん、それによって私は傷つくし、悲しいとも思う。それが実際に悲しいという感情になっている時点で、ひょっとしたら気のせいかもしれない、という可能性は無意味になっている。 精神的に不安定な時はそれを反芻して腹を立てたり「私ってやっぱりダメなんだ」と落ち込んだりもする。 それでも最終的に着地する地点(「人に好き嫌いの感情があるのはしょうがない。それは否定すべき感情ではない」「自分の感情は自分のものだし、それと同じように誰かの感情はその誰かのものだ」「誰かがあなたを嫌いだということ、また反対にあなたが誰かに好かれているということがあなた自身の価値を決めはしない」ということ)だけは絶対に間違わないようにしたいと思っている。 こういうことは言葉では伝えられない。具体的に何かがあった時に私がどう対応するか、その姿で伝えることしかできない。 着地点だけは絶対にブレてはいけない。 そう自分に言い聞かせている。
by liyehuku
| 2008-05-24 01:48
| DD&DS
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