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2008年 06月 28日
今朝、娘をサマーキャンプに送って行くと、担当の教師が、
「あら、これどうしたの?」 とちょうど娘の背中、首の付け根あたりにある痣に目を留めて言った。痣の部分はなっていてひどく赤くなっていて擦り傷のようにも見える。 「え、あなたも知らないの?私、昨夜お風呂に入っている時にこれを見つけててっきりここでやったんだと思っていたんだけど」 サマーキャンプには週2回、水遊びと自転車講習が組み込まれている。 昨日は自転車講習の日だった。 朝、出がけの夫に傷のことを話したばかりである。 「昨日、バイクの時間(=自転車講習の時間)についた傷だと思う。ヘルメットの紐が緩すぎて首の後ろに落っこちたんじゃないかな」 と言うと、彼は、 「他の子のハンドルがぶつかったように見えるけどねー」 と言った。 「いや、昨日は私気がつかなかったわ」 と教師。 「一度も泣かなかった?」 「朝来てあなたがいなくなる時以外は全然泣かなかった」 これだけ赤くなっていれば傷がついた時に泣いているはずなのだ。しかし昨日は家でも泣かなかった。 ここのところまた反抗期のようなものが始まったらしい。そしてそれは娘が身体的にも精神的にも成長してくるにつれますますそれは扱いにくくなってきている。「やるな」と言われることは意地でもやり、「やれ」と言われれば絶対にやりたくないそんな娘を相手に、やむなく持っているものを取り上げたりして娘を泣かすことも多くなった。だから「昨日は(珍しく)泣かなかった」という事実はきちんと思い出せる。 そういえば昨日は午後長い間、昼寝をしていたんだっけ。寝ている間についた傷なら本人が気づかずにいるということも考えられる。 たまたま教室の前を通りがかってやっぱり痣に目を留めた知人も交え、 「打撲傷ではないわよねえ」 という話をしながら、結局、どこでどうやってその傷がついたのかわからないまま話は宙ぶらりんになった。 昨夜、入浴時にそれを見つけた時、私は娘に、 「え、これどうしたの?」 と尋ねた。 「・・・・・・」 まだ説明できるだけの語彙がないらしい。 「今日学校でなったの?」 「・・・・・・」 「バイクの時間になったの?」 「・・・・・・」 「痛い?」 「いたくない」 「じゃあ痒い?」 「かいくない」 「大丈夫?」 「○○ちゃん(自分のこと)、だいじょうぶ!」 と娘は言った。 「学校」に通い初めてすぐ娘が知恵熱を出した時、「やっぱりまだ早すぎたか」と思い「もしあまり無理をさせているようならもう少し待つべきなのかもしれない」と思った。 でも結局、もう少し通わせて様子を見ることにした。 また熱を出すかもしれない。でもそれはそれでしょうがないじゃないか、と思うことにした。熱を出したらその時しっかり傍にいて看病してやればいい。そして学校のことはその後で考えればいい。 また熱を出すんじゃないかと思って私がびくびくしていたら、子どもだっておちおち熱を出していられないだろう。熱くらい必要な時に出させてやればいい、と思った。 しかしそれでもやはり、「この子は集団生活にうまく馴染めているのだろうか?楽しんでいるのだろうか?」とか、「他の子にいじめられてないだろうか」とか、「先生はこの子にどう接しているのだろうか」とか、気がかりは絶えなかったのだ。 毎朝、私が教室を去る時、娘の泣き叫ぶ声を背中に聞くたびに胸が締め付けられるようだった。 しかし昨日、娘がお風呂の中で「だいじょうぶ!」と言った時、ああ、結局、学校でこの子に起こること、それをどう本人が受け止めるかということは、基本的にはこの子自身の問題なんだな、と思った。そういうことはまず第一にこの子の問題であって私の問題ではないのだ、ということを腑に落ちるようにして悟ったというか。 こう書いてみるといかにも当たり前のことのようにも見え、「その感じ」が逆にうまく伝わらないかもしれない。 義務教育課程に就学する前の年齢で、しかも学校側の受け入れ年齢にも満たない年齢の子どもを学校(「プレスクール」ではあるが「学校」と捉えてもいいと思う)にやるという決断、学校にやるにあたってのその学校選びは親の考えや都合(それも主に母親である自分の)によって行なわれた。娘の年齢からいってしょうがないとはいえ彼女の意思はそこには全く反映されていない。 理不尽なことを強いているのではないかという娘に対する罪悪感からだろうか、彼女が学校生活をどう送るかということを私は知らず知らずのうちに「自分の問題」として捉えていたのだろう。 でもたとえそこに娘の意思が全く反映されてなかったとしても、いったん送り出してしまえばその先で起こることは「まず何よりも彼女自身の問題」なのだ。 確かに何かがあった時にその責任を負う能力のない子どもの代わりにそれを負うのは親である私たち夫婦だ。でも「問題は誰のものであるのか」と「その責任は誰が負うのか」ということは出来る限りきちんと区別しておくべきなのだと思う。 あともう数ヶ月もすれば私も3歳になる。娘の母親として。
by liyehuku
| 2008-06-28 01:55
| DD&DS
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