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2008年 07月 22日
母と衝突することは昔から多かった。
私が結婚して子どもをもってからはずいぶん穏やかに接することができるようになっていたのだが、妊娠してからまた衝突することが多くなった。 歳を取ると穏やかな人はますます穏やかに、気難しい人はますます気難しくなるという話を聞いたことがある。長所も欠点も強化される傾向があるらしい。 しかし、そもそも長所と欠点は同じものの裏表のはずなのだ。その原理(?)からすれば「ああ、この人、歳を取ってますます困ったことになったなあ」という場合でも、その裏面は長所になっているはずである。そこに目をやることができればなんとかなるのかもしれない。 そう思いつつ、いざ自分が当事者になるとなかなかそういうわけにもいかないというのが現実だ。 「お願いだから、2番目の子どもが生まれて落ち着くまでは、その間だけでいいからその道の専門家に相談してください。 自分に合った人を探すのは難しいかもしれない。でも愚痴を聞いてもらうだけだと思えばそんなにがっかりすることもないかもしれない。『愚痴聞いてもらうだけなのにお金を払うなんて』と思うかもしれないけれど。 でもね、『誰にも言わないで』という類の愚痴は話す方はすっきりするかもしれないけれど、聞く方はしんどいんです。ましてや自分がその愚痴の内容の当事者であるような時にはたまったもんじゃない。 少なくともそれをきちんと職業にしている人であれば守秘義務がある。『聞いてもらうだけ』でもお金を払うだけの価値はあるんです。少なくとも私にはある。もし何だったらお金は私が払ったっていい」 と懇願したいのはやまやまなのだ(いつも喉まで出掛かっている)が、彼女の年齢を考えるとそれができたらとっくの昔にそうしているはずなのだ。 電話の回数をもう少し控えて欲しいと頼んだこともあるが、どうもそれも無理なようだ。要するに彼女には私しかいない。 かといって精神的に不安傾向の強い母の動揺をそのまま私がかぶるわけにもいかない。 これが私の「母親」でなければ、 「ああ、かわいそうな人だなあ」 と思いながら相手の動揺に影響されることもなく話を聞き流せるのだろう。 しかし哀しいかな、相手は私の母で私は母によく似ている。(幸か不幸か、母と似ているのと同じくらい父にもよく似てはいるが。) 何とか母からの影響(動揺)を自分の中で断ち切らなければ、と思いつつ、それがうまくできない理由には、まず私が母と同じものを自分でも抱えているからなかなかすんなりとはいかない、ということが挙げられるだろう。 また、それは既に1児の母であり今また新たに生まれてくる子どもの母親になろうとしている私にとっては「いずれ自分も母親として断ち切られるのだ」ということも意味しているのかもしれない。(「しかもそれは、今私が母にやっているのと同じやり方で訪れるのかもしれない。私は母とそっくりなのだから」) そして、それはひょっとして私が母から学んだ子育てに関して行き詰まりを感じているせいなのかもしれない。 私は娘を育てるにあたって、いくつかの点では母を参考にしならがも基本的には母を反面教師としてやってきた。そして参考にするにしろ反面教師にするにしろ、具体的には母の「やり方」を取り入れるか拒否するかという方法を採っている。つまり、母が何故そうしたのか、そうしなければならなかったのか、その理由や原因についてはあまり目を向けてこなかった。 それでも「参考にしたい点」についての理由や原因について思いをめぐらせるのは比較的容易なことだ。 問題は、反面教師として切り捨ててきた部分についてである。切り捨ててきた部分の理由や原因はできれば自分の中には認めたくない、なかったことにしたいようなものであることが多いからだ。 「やり方」を切り捨てたとしてもその元になっている理由や原因がなくなるわけではない。そしてそれは、私にしてみればできれば別の形がいいにせよ、とにかく何かの形で消化されなくてはならない種類の理由・原因なのだ。 私は果たしてその理由・原因に対して適切なやり方を自分の中に用意しているだろうか? 今、私が行き詰まりを感じているのは、既に自分が切り捨ててしまってケリがついたと思っていた部分を何らかの形で自分に取り入れ直す必要があると思っているからだと思う。 いずれにせよ、とりあえず妊娠中と産後1年は母との衝突もやむなしと受け入れるしかないのかもしれない。 ここはハラを決めて、私が母専属の臨床心理士(または『王様の耳はロバの耳』の木の洞)になるしかないのだと思う。夫が私にとってその役割をしてくれているように。 しかしこれまでのように丸腰のままではあまりにしんどいので「衝突もやむなし」の期間の間に勉強しておこうと思う。(そのとっかかりとして河合隼雄氏の著作を中心に読んでみるつもりでいる。) そうこうしているうちに母親とうまく決別できるんじゃないか、という気持ちもある。 (「決別」というのは、今の私にとっては自分の母親を客観的に眺められる適切な距離を見つける、ということだ。)
by liyehuku
| 2008-07-22 02:48
| Diary
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Comments(1)
Commented
by
liyehuku at 2008-07-23 02:11
LingRingどの、
自分で書いたコメントの返事を投稿し直そうとして、うっかりせっかく書いてくれた元のコメントの方を削除してしまいました。ごめん・・・・・・ 今、煮詰まってるもんで、すっと共感してくれるようなコメントがとても嬉しかったのだけれど。 (子どもからみた)親子、特に母と子の関係って、親がどういう人か、とか、どういう家庭だったのか、ということとは別に、人がそれぞれが抱える問題なのかなあ、という気がするよね。 なかなか他の人には理解しがたいし、当の相手(親)にはたいていその意識がなくて一人相撲な上に、自分にもなかなか見えてこない部分が多かったりして、その問題を咀嚼するのは完全に孤独な作業になるよね。しょうがないんだけど時々しんどいね。 まだもやもやとしてはっきり道筋は見えてないんだけど、これって結局「自分に訪れる死をどう受け止めるか」という過程の一つなんじゃないかという気がしています。
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